scene1【遭遇】 そこは人々が行き交う賑やかな広場。 その一角に佇む男がいた。 「ん・・・」 男は何を見るわけでもなく、空を見つめている。 暇を持て余しているのだろう、男はつまらなさそうに胡座(あぐら)をかいて頬杖をついている。 一見、彼はただの怪しい男だった。 彼の周りに置いてある物に気付かなければ。 そう、彼は露店を開いているのだ。 しかし問題はその位置と彼の態度。 人々が行き交う道沿いには彼と同じ、露店を開いている者達で溢れかえっている。 その露店の群れの外れ、およそ人が通るとも思えない所に彼は露店を開いていた。 そんな所に、つまらなさそうに胡座をかいている男が露店を開いているなどと、誰が思うだろうか。 置いてある商品も疎らで統一性もなし。 そんなわけで彼は暇であった。 広場の一角、獣の唸り声のような音が一瞬流れ、風にかき消される。 それが男の腹の音と知るのは男自身と、風のみである。 男はおもむろに立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだ。 zenyと彫刻されている硬貨が数枚と紙幣が一枚。 「・・・ちっ。」 舌打ちをすると男は露店の品を持ち前のカートに回収し、その場を後にした。 彼が向かったのは酒場でも、洒落たレストランでもでもなく、城外であった。 城砦都市にしてルーンミッドガッツ王国の首都[プロンテラ] 城壁で囲まれたその街も、一歩外に出れば法も秩序もない治外法権。 人類の敵、モンスターの巣窟である。 しかし、治安の良いプロンテラ周辺においては、俄然平和であり、 比較的低級な魔物しか近寄らない。 それ故、ある程度の腕に覚えのある者達の間では座談会や日光浴をする者達も少なくはなかった。 彼はというと、楽しくお話しに来たわけでも、 ましてやのんびりと日向ぼっこをしにきたわけではない。 彼はふぅ、とため息をつく。 「まーった今日も林檎パーティーですかい・・」 彼の目的はあたり一面に転々と茂っている林檎の木である。 彼曰く、ポリンが落す林檎は木から落ちた物なので、 熟し過ぎている上に潰れているので美味くないそうだ。 彼は目ぼしい木を見つけると器用によじ登り、手頃な林檎を2、3個手に取った。 「・・・・・・あん?」 本日の昼飯を木の上でかじっていると、一面に広がる緑の大地にポリンでもない、 ルナティックでもない物体を発見した。 何気なしにしばらく眺めていたが自然消滅しないのでどうやらアイテムではないらしい。 彼は三つ目の林檎の最後の欠片を口に放り込もうとし、虫が食っていたのでやめた。 「・・・・・おーい。」 彼はなんとなく気になり、その物体に近づいてみたが、その物体は手や足があり、 つまるところ人間であった。 「生きてるかー。」 うつ伏せに倒れている男性を少し揺すってみるが男性の反応はない。 見たところ、ゆっくりと息はしていたので気を失っているだけのようだ。 寝てるにしても不自然だし、なにより彼は丸腰であった。 (世の中には丸腰でも己が拳を武器として戦う者もいるそうだが、 少なくとも目の前の男性はお世辞にもそんな風には見えなかった。) なにより服がボロボロであり、酷く傷ついているようだった。 「やれやれ・・行き倒れの面倒見てる場合じゃねぇぞ、俺さんよ。」 独り言が多いのは彼の性格であろうか。 一人悪態を付きながら男は倒れている男性を担ぎ、元来た道を引き返していく。 ────────────────────────────────────                    scene2【違和感】 目蓋が重い・・・ 寝ていたい そんな事を考えている内に脳が活動を始める。 起きあがる気にもならなくて寝惚け眼で腕時計を覗き込む。 【AM06:31】 どうやら自然と目が覚めたらしい、いつもの起床時間より大分早い。 目覚ましのスイッチを切ろうとする手が空を切った。 手でごそごそと周辺を弄るが、時計を触ることは叶わない、触れるのは埃ばかり。 いいかげん目も覚めてきたので起き上がるとしよう。 床に落ちているだろう目覚まし時計を拾うため、ベッドの側面に腰掛ける形で起き上がる。 最初に感じたのは違和感。 より思考がクリアになっていく中で、私の心中は逆に違和感という闇で淀んでいく。                ない 目覚まし時計がない、流線型をした、青色のデジタル式のやつだ。 しかし、ないのは時計だけではない。 部屋を見渡すと冷蔵庫も、オーディオセットも、パソコンも本来あるべき場所にはなかった。 ぐるりと見回した結果、私の部屋からそれらの物が紛失というよりむしろ、部屋自体が違うことに気付く。 つまり私は今自分の部屋にいないことになる。 「・・・っ!」 私は何を悠長に考えているのだろうか。まだ本格的に脳が動いてくれていないようだ。 ここが私の部屋でないとしたら一体どこだ。 昨日の就寝前の記憶を探る。 昨日は・・・・確かに寝た、それも自分の部屋で、時間も覚えている、24時丁度。 ならば何故ここにいる? いや、それよりここが何処かを知るのが先決だ。 もう一度部屋を見渡す、私の寝ていたベッド以外には机と椅子が二つ、実にシンプルな部屋。 それと窓があった。 窓は開けられていて、外から吹いてくる風がレースのカーテンを優しく撫でている。 私は立ち上がろうとして・・・床と接吻を交わした。  刹那!体全体に焼けるような激痛が走る。 体中が悲鳴を上げる。ここで私は初めて、自分の体が包帯だらけなことに気付く。 私は怪我をしているのか? しかし、現状を把握しないことにはおちおち寝てもいられない。 きしむ体を鞭打ち、壁伝いになんとか窓の傍へと辿り着く。 窓の外を覗くとそこには─── 行き交う人々、青い空、立ち並ぶ家々。なんら変哲もない光景。 ただ、一つだけ違ったことがあるとすれば、行き交う人々が珍妙な格好をしていたということだろうか。 これは最近流行りのコスプレというやつだろうか。 先日、深夜のニュースで流れていた報道がフラッシュバックする。 それにしても妙である、行き交う人々皆が皆、見たこともない格好をしている。 下手をすれば猥褻物陳列罪に引っかかりそうな破廉恥な格好の子もいる。 今日は何か祭りでもあったか? 本来、カレンダーがあるべき場所を見つめながら思慮に深ける。 バタン、という音が背後からして突然の事に体が跳ね上がり、自分が今、 体をろくに動かせない事を悟った時にはもう、目の前に床が広がっていた。 「・・・・床で寝るのが趣味か?」 半ば呆れ顔で男は言った。 「・・・・・・・・」 しかし、鼻に全体重分のダメージを受けた私には答える余裕は無かった。 ─────────────────────────────────                    scene3【現状把握】 私の前の机には薄そうなスープと硬そうなパンが二つずつある。 今、私の目の前でスープを啜っている男が用意した物だ。 鼻の痛みが引いた後、目の前の男は私に食事をとるよう奨めた。 昨日、帰宅してから食事もとらずにに床に就いたので、体は空腹を訴え続けている。 思うように動かない手でスープをすくい、一口啜る。 「…不味い。」 「お前…喧嘩売ってんのか?」 男は口をへの字に曲げる。 こんな不味いスープをよく平気な顔をして喰えるもんだ。 「いや、すまない。有り難く戴く。」 味はともかく、怪我人である私は今はとにかく栄養をとることを優先することにした。 「落ち着いたか?」 食事を済ませ、黒濁色の液体が入ったカップを手渡しながら男が尋ねてきた。 「おかげ様で。」 カップを受け取り、一口啜る。独特の香ばしさと苦みが口の中に広がる。 「とりあえず、お互い自己紹介といくか。俺はシュラ、まぁ適当に物を売ったりしてその 日暮しをしている。」 「……ショウだ。」 そう、私の名はショウ・サイトウ、有りふれたごく普通のサラリーマン……だったのだが。 男はうむ、と相槌をうつ。 「んで、そのショウさんは」 「ショウでいい。」 見たところ男…シュラは二十代半ば、つまり私とそれほど歳は離れていない。 「わかった、ショウは何だってあんな所で倒れていたんだ?」 何故ここにいるのか、ここは何処なのか、私には今、自分が置かれている状況を知るには情報が圧倒的に足りない。 「・・・わからない。どちらかというと私が聞きたいくらいだ。」 「わからないったって、お前。」 シュラは呆れた顔をする。 「何処から来たとか、倒れる直前は何をしていたとかあるだろうが。」 これを言うと話がややこしい方向へ行ってしまう気がするのだが・・・言うしかあるまい。 「私はここで目が覚める前、自宅にいた、これは確かだ。そして、寝て起きたらここにいたんだ。」 訝(いぶか)しげな表情でこっちを見つめたまま男はこちらを見つめている。 「んじゃぁ、出身は?」 出身と言われても困るがありのままを話すほかあるまい。 「生まれも育ちも日本、東京都だ。」 シュラの顔が一層険しくなる。 「はぁ?」 日本ではわからないのだろうか。 「ニッポン、ジャパンだ。」 「ジャパンだかペンだか知らんが、生まれてこの方、んな名前の国は聞いたこともないがな。」 そう言ってコーヒーを飲み干すシュラ、立ち上がり、コーヒーポッドを持ってきて二杯目を注ぐ。 日本を知らないとはどういうことだろうか、確かに日本から遠く離れた発展途上国ならば知らないこともあるかもしれないが。 「東アジア、チャイナのすぐ東の小さな島国だ。一度くらいは聞いたことはないか?」 注ぎ終えたコーヒーポッドを机に置きながらシュラは答える。 「知らんな。」 これはどういうことだ、日本や中国はおろか、アジアも知らない? 「それはこっからどれくらいの距離にあるんだ?」 そういわれて根本的な事に気づく。 「答えたいのは山々だが、さっき話したように、ここが何処だかもわからないんだが。」 ──────────────────────────────── 彼の話を纏めるとこうだ。 ここはミッドガルドという大陸の王国、ルーンミッドガッツと言ってこの街はその首都であるプロンテラという所らしい。 途中、外を歩いている奇妙な格好をした人々の事を訪ねたが鼻で笑われた。 彼等は冒険者と言って大陸中を旅し、様々な目的の下、世界を旅して回る人々らしい。 ここまできたら認めるしかないようだが、どうやらこの世界は私のいた世界とは違うらしい。 願わくば悪い夢であって欲しかったが、先程の激痛、その他感じた全ての事象がこれは現実だということを如実に物語っていた。 目の前が真っ暗になった。これから先の事を考えると頭が痛くなってくる。 明日までに提出するはずだったプレゼンの企画書はどうしようかと思いつつ、私の胸中は不安で一杯であった。                    scene4【勃発】 最初に聞こえたのは何かの爆発音。 続いて大地が震撼する。 何やら外が騒がしい、女性の甲高い悲鳴や男性の叫び声が微かに聞こえた。 シュラは窓に駆け寄って外の様子を探っている。 「…………糞ったれが!!」 突然、シュラの顔に怒気が含まれる。 「何かあったのか?」 何かがあったことは明白なのだが何が起きたのか、という意味合いも含め尋ねる。 「どこかの馬鹿がテロを起こしやがったんだよ…」 窓の外を眺めながらそう言うシュラは悲痛な面持ちをしていた。 ドアに駆け寄り、立て掛けてあった斧を手にする。 「いいか、何があっても俺が帰るまで家を出るな。」 今までのどこかやる気のない面から一変、真剣な面持ちで振り返りざまにそう忠告してシュラは部屋を飛び出した。 「さて、どうしたものか…」 テロとは一体何なのだろうか。 いち行商人の彼が向かうくらいだから私のいた世界のテロと同じものとは考えにくいが…。 ……わからないものを考えても仕方ないな。 ここで心を落ち着かせ、自分の置かれている状況を一度整理してみよう。 「パラレル・ワールドか…」 平行世界。 今、私がいる世界は、数点を覗けば私のいた世界に酷似している。 私は時間軸を超え、何かしらの力によってこちらの世界に来てしまったのかもしれない。 そうなると元の世界への帰還は絶望的なものになるが…。 「ん?」 ドアが三回、早いテンポでノックされた。 シュラにしては早すぎるし、第一彼が自分の家に入るのにノックする道理はない。 テロというからには誰かが助けを求めているのかもしれない。 廊下に出てみるとすぐ目の前にあった階段を降りる。 体が痛むがこのさい文句は言ってられない、向こうは命に関わるのかもしれないのだから。 なんとかドアの前に辿り着く、階段を下りている間もずっと、ノックは続いていた。 ドアノブに手を回し、ゆっくりと手前に引く。 「こんにちは。」 私の目に映ったのは、通れば誰もが振り向くような、絶世の美女だった。 ────────────────────────────────                    scene5【衝突】 人々が逃げ惑う中、それらとは逆の方向へ疾走する一つの影があった。 突風のごとくスピードで人々の合間をぬい、影は猛進する。 街の中央公園に差し掛かった時、噴水の方向から男性の断末魔が響き渡った。 影──シュラは噴水へと疾走した。 シュラの目に広がったのは無残にも引き裂かれた人々の死体、その中には王国の騎士団の格好をした者もいる。 まだ息のある者も、大半は喘ぎ、苦しんでいたり、中には前のめりにうつ伏せになったまま痙攣していた者もいた。 そんな中、シュラの目は一点を見つめていた。 漆黒の鎧の中に凛と輝く不気味な光を放ち、その手には細身の片手剣、サーベルが握られている。 中級眷属、カーリッツバーグ、ざっと十数体はいる。この数ではいかな王国騎士団と言えども荷が重いだろう。 一体のカーリッツバーグのがこちらに気付く、それに続いて周りの仲間もシュラを発見する。 辺りを蠢いていた一団は一斉にこちらを向き、剣を引きずり向かってくる。 それらには意思が感じられず、操り人形のように不気味な動きであった。 無言のままシュラは持っていた武器、ツーハンド・アックスを構える。 そして筋肉を弛ませ身を低くたかと思うと、既にその姿はそこにはなかった。 銃弾のごとく速さを持った斧は横薙ぎに構えられ、カーリッツバーグの隣を駆け抜けざまに胴体を切断する。 カーリッツバーグは目の前に現れた標的に対し、剣を振りかざす。 しかしその剣はシュラを捕らえることなく空を切り、代わりに振り下ろされるシュラの一撃が胴体を縦に二分する。 斧を振り下ろした勢いのまま、シュラは前方に転がる。 彼のいた地面に剣が突き刺さる。起き上がりざまにシュラは跳躍し、剣が刺さったままもがいているカーリッツバーグを叩きつける。 本来身を護るはずの兜に斧がめり込み、陥没した。 シュラは斧を引き抜き、カーリッツバーグの一体に突進する。 あまりのスピードを持ってして突き出された斧は、なすすべもなくカーリッツバーグの腹部に突き刺さる。 その衝撃でカーリッツバーグの体が後ろによろけ、それでもなお剣を振り下ろそうと腕を振りかざす。 シュラは素早く斧を引き抜き、振り下ろされる剣の中に自ら飛び込んだ。 間合いの中に潜り込まれ、振り下ろされた剣はシュラを捕らえることなく、地面を叩きつける。 懐に飛び込んだシュラは渾身の力でカーリッツバーグの腹部を蹴り飛ばす。 蹴りつけた反動を利用し、ショウは跳躍する。下方から次々に繰り出される突きを斧の側面を使って捌き、着地ざまに斧を横薙ぎに振るう。 カーリッツバーグは咄嗟にサーベルの腹部で受け止めるが、斧は刀身を砕き、そのままカーリッツバーグの頭部を爆砕した。 休む暇もなく、左右から剣が迫る。 シュラは咄嗟に身を屈め、左足を軸に回し蹴りを繰り出す。 地面が抉られるほどの回転力を持って繰り出されるそれは、子気味いい音と共に、カーリッツバーグの頭部を吹き飛ばした。 足をあげたままの姿勢のところをもう一体のカーリッツバーグが襲い掛かる。 不安定な格好だったシュラは避けることができず、咄嗟に体をひねって直撃を避ける。 完全に避けることができなかった剣はシュラの左肩に突き刺さり、鮮血が迸(ほとばし)る。 「…っのやろおお!」 相当の重量を秘めたツーハンド・アックスを右手で軽々と持ち上げ、カーリッツバーグの頭部を切断する。 息をもつく間もない戦いの中、突然、残ったカーリッツバーグ達は一斉に攻撃をやめ後退り始めた。 元々理性のない操り人形である彼らには恐怖というものは存在しない。操る者がいるのだ。 その操る者が命令したのであろう、カーリッツバーグの一団は今は攻撃をやめ、シュラを取り囲むようにして距離をとっている。 「人間にしてはやるな。」 シュラは声のする方向──噴水の噴出し口へと顔を向ける。 そこには角の生えた男が一人、こちらを見下ろしていた。 淫魔の上級眷属、インキュバス。その整った顔立ちで女性を翻弄し、襲うと言われている。 「私の贈り物は気に入ってくれたかい?」 口を吊り上げてこちらを見下ろしてくる淫魔の顔は、この世のものとは思えないほど鬼気に満ちていた。 「こんな糞ったれたプレゼントは返品ものだな。」 怒気を含み、睨め付ける。 「ふむ、どうやら気に入ってもらえなかったか。せっかく一晩かけて用意したんだが。」 そういうとインキュバスは背中の羽を使い、シュラの目の前に降り立つ。 「残念だよ。」 大げさに手を広げて首を振り、悲嘆に暮れるポーズをする。 しかしその口元はあざ笑うように吊り上げられている。 「今すぐこの街から出て行くんだ、どうせ古木の枝で召還されたんだろ。大人しくそいつらを連れてでていけ。」 インキュバスは口を歪ませる。 「嫌だと言ったら?」 シュラははっきりとした口調で答える。 「殺す。」 「おお怖い。」 「俺にできないとでも思っているのか。」 「さてね、どちらにせよ私はもう少しここにいる気だし、貴方に殺される気もないんだが。」 ふむ、と腕を組みインキュバスは考えるポーズを取る。 「そうか…」 シュラはゆっくりと斧を構える。 「私を殺す気かい?」 インキュバスはさも楽しそうな表情で問いかける。 「出て行かないんだろ?」 ぎり、と斧を握る手に力を入れる。 「ああ。」 その言葉が発せられるやいなやシュラのいた空間は砂塵を巻き上げた。 雷のごとく疾走するシュラに対し、インキュバスは何をするわけでもなく突っ立っている。 繰り出される斬撃は空気を裂き、凄まじい勢いでインキュバスの肩を捕らえる。 斧はインキュバスの肩を切り裂き、身を裂いて胴体を両断した。 手ごたえはあった。しかし。 「全く、いきなり切りかかってくるなんてデリカシーに欠けるようだね。君は。」 いつの間にか後ろにいたインキュバスがそう言って左手を伸ばす。 シュラのいる空間が歪み、体が崩れ落ちる。 「っぐ!」 「無駄だ。その空間に重力場を生成した。立ち上がることはできない。」 両手を付きうなだれるシュラに背を向け、インキュバスは歩き出す。 「待ち・・・やがれ。」 歯を食いしばり、全力を持って立ち上がろうとするが自らの体重によって押し付けられる。 「無駄だと言っている。」 無慈悲な言葉を残しこの場を立ち去っていくインキュバス。 「───────!!」 何かが砕ける音がしたかと思うと風が吹き抜けた。まず気が付いたのは違和感、体の一部がすかすかになった感じ。 そして目の前にいる男───シュラが持っている斧に付いている液体を見た時、自分の腹部が切り裂かれていることに気が付いた。 「っが…ぁ。」 口内に血が溢れ帰る、吐き気のするほどの鉄の味が口に広がって不快感がする。 「き・・・さま・・・・・・どこにそんな力が。」 勢い良く腹部から迸る鮮血を手で押さえながら怒気に満ちた顔でインキュバスが睨めつける。 シュラの隣にいるものを見た時、疑問は理解へと変わった。 「メマーナイト…」 金の神の力を借り、瞬間的に筋肉を二倍にも三倍にも膨れ上がらせる商人の秘技中の秘技。 使えるのは極一部の者で、神秘の技とも言われていた。 「死ね。」 斧が振り下ろされる。 しかしそれは目標を捕らえることなく、空を裂く。 現れた時のようにいつのまにかインキュバスは噴水の上にいた。 「気が変わった、まさかメマーナイトを使える奴がいるとはな。決着は日を改めさせてもらうよ。」 そういうインキュバスの腹部には既に傷はなく、顔に付いた血もなくなっていた。 インキュバスの足元から炎が巻き上がり、それと共にインキュバスの姿も消えていった。 それに伴い周りで蠢いていたカーリッツバーグも音を立てて崩れ落ちる。 「そうそう、早く家に戻ってあげたほうがいいと思うがね、なんせこれほど大規模なテロだ、何があっても不思議じゃない。」 そう言ったインキュバスの去り際の楽しげな声を聞いてシュラははっとして焦燥に駆られた。 「くっ…そ野郎が…」 休む間もなく、シュラは全力で駆け出す。 通常、インキュバスは相方の淫魔、サキュバスと共に行動する。 その相方がここにいないということは別の目的があって各個に行動していることになる。 そしてそのサキュバスが何処に向かったのかは、先程のインキュバスの言葉から容易に想像ができた。 ─────────────────────────────────────────────                    scene6【豹変】 すらっとしたパールホワイトのロング・ヘアー。 真紅の目は透き通っていて、綺麗だった。 「あ…」 私が見とれていると、その女性は断りもなしに早足に中に入ってきた。 息はあがっていて、体も微かに震えているように見えた。 私は後ろで座り込み震えている白髪の女性を横目にとりあえずドアを閉めた。 「どうしましたか。」 女性は座り込んで息を整えている。 「はぁ…はぁ……あ…すみません。」 数回深呼吸した後、ようやく落ち着いたのか立ち上がって伏し目がちにこちらを見つめてきた。 「突然で申し訳ありません、その…私化け物に追われていまして、こちらの建物が見えましたので無我夢中で…」 「はぁ…」 ドアのすぐ横手にある窓からカーテンの隙間で見える範囲で周囲を見渡す。 「……その化け物はこの近くに?」 もし跡をつけられたのだとしたらここも危なくなるかもしれない。 シュラの言葉を思い出す。テロと言っていたがこの世界は化け物がでるのか? 「あ…いえ、途中で後ろを振り向きましたがその時は見えなかったのでとりあえずは大丈夫かと…」 既に撒いたということか、しかし撒いたのに何故こんなにも急いでいたのだろうか。 無言の私を見て怒っていると思ったのであろうか、女性は慌てて言い繕う。 「あの…私こんな事初めてで…その…とても怖かったから……」 俯いて今にも泣きそうになっている。 なるほど、確かにごく普通の一般人、それも女性ならなおさら、化け物に襲われれば気が動転しても不思議ではない。私だって怖い。 しかし困った、ここはそもそも私の家ではない、確かにシュラからは家を出るなとは言われたが、人を入れるとなるとさて。 「あのー…」 「ん?」 「ご迷惑でしたでしょうか、その…この騒ぎが収まるまででいいので、少しの間かくまってもらえないでしょうか。でないと私…」 家を出て送り出すこともできないし、そもそも私はこの体だ、歩くこともままならない。 シュラには後で事情を説明すれば納得してくれるだろう、なんせ私のような行き倒れを助けるような人間だ。 「あー、いや、私はここの主ではないのだが…家主には後で事情を話しておく。ゆっくりするといい。」 「あ、有難う御座います。」 ふぅ、と安堵の表情を見せる、よほど怖かったのであろう。 ───────────────どれくらい時間が経ったのだろうか、辺りは今は静まり返っている。 とりあえずあの後化け物が家に侵入してくるという事もなかった。 一回では座るところもないので私達は二階に上がっていた。 「…………。」 「…………。」 なんとも言えない沈黙。 まぁ、お互い知らない身だ、ましてや今は世間話でもする状況ではないし、そもそも私はここがどこすらもわからない。 「あの〜。」 「?」 急に話しかけてきた、心持ち顔が赤い。 「・・・っ!!」 振り向くと同時に私は唇を奪われた。 「・・・っ、なんの真似だ。」 あまりのことに一瞬動転したが慌てて引き剥がす。まだ感触が残っている…。 しかし彼女は再び抱擁してくる。わけがわからない。 「私と…寝て下さい。」 「なっ・・・!」 立て続けに起きるハプニングに頭がついていかない、この人は一体何を言っている。 「───!!」 下の階からドアの開く音がした。 シュラだろうか。 この状況をどう説明したものか、気が滅入る。 「っち。」 ──?  今、彼女は舌打ちを──────────── ずる、っと肉に串を刺す時のような、なんとも言えない嫌な感触が伝る。  「・・・・・・っぁ。」 胸の辺りに何やら違和感を感じる、そしてその違和感は灼熱感へと変わった。 「グ…ぁ……貴様……っづ…」 痛い、熱い、胸が焼ける、この痛みはなんだ。 喉から血が込み上げてくる。耐えられなくなって吐き出した。 これは一体どういうことだ。頭の中は理不尽な痛みで埋め尽くされている。 ナニモカンガエラレナイ イタイ…イタイ…イタイ… 女はすっと身を引き、艶めかしく指を舐める。 その指先には赤黒い液体が滴っていた。 「余計な邪魔が入っちゃったか。」 彼女は着ていたローブを放り投げ、こちらを向く、その顔は不気味なほどに無慈悲であった。 「本当は直接抜いたほうがいいんだけど…」 そう言って彼女が手をかざす、と同時に体に何か、見えない風船の内側に包まれるような圧迫感を感じる。 彼女が不敵に微笑むと、私に残っていたわずかな力が抜けていく。 「……ぁ。」 ものの数秒もしない内に我ながら情けない声を出し床に崩れ落ちる。 誰かが叫んでいる気もするが。 それからは急に眠くなってき…た…すこ…し…ネ…ル…カ………。 私の意識は二度と戻ってこれないかもしれない闇へと沈んでいった。 ────────────────────────────────────────                    scene7【収束】 「ん……」 んー・・・ いつの間にか寝てたか… 頭がガンガンする。 飲みすぎたか? そういや昨日は残業だったのに佐々木に付き合わされて飲みに行ったんだっけか。 …おかげでタクシーを拾って帰ることになってしまった。 「水…」 とにかく喉が渇いた。 「ほれ」 どうも。 「ふぅ。」 相変わらず頭はガンガンするが少し楽になった。 そういや変な味がしたような……そう…これは…血?の味…。 血? 「落ち着いたか?」 「ぶ!」 「うわっ! きったね。」 な……だ、誰だこいつは。私は思わず水を吹いてしまった。 「ったく、まだ目が覚めてねえのか。」 だんだん頭が覚醒していく。 ─────────思い出した。 夢じゃ・・・なかったんだな… そうだ、私はいつの間にか違う世界にいて、この男と会って、騒ぎが起きて、女と会って… …女? 「…っ!!」 はっとして急いで自分の胸を見下ろした。 …ない。 胸の穴が綺麗さっぱりなくなっていた。 しかし、包帯は破け、血が滲んでいることがあの出来事が実際の事だと物語っている。 「イグ葉だ。」 「イグハ?」 突然の発言の意味が理解できず、私はオウム返しに聞き返した。 男・・・シュラは、うむ、と頷いた。 「世界樹、イグドラシルの葉。神の加護を受けた特殊な樹でな、その葉を使うと死んだ人間を生き返らせる事ができる。」 死んだ人間を生き返らせるだと? そんな… 「もちろん。   色々と制約はある。」 私の心中を悟ったかのようにシュラは続ける。 「まず、イグ葉で直せるのは物理的な死の場合のみだ。病気だったり、寿命だったりは生き返らせることができない。」 「イグ葉は、葉が肉となり、滴が血となる。 だから出血多量だったり、無くなったりした肉を戻すことができる。」 「当然、バラバラになった肉片から修復する事も不可能だ。 葉の肉への変換率を超えているし、そもそもそこまで複雑な治療はできない。」 「ふ……む。」 正直、突然こんな話をされても寝耳に水だ。信じろというほうがどうかしている。 しかし、実際に私はその効果を身を持って体験している手前、信じるしかないだろう。 「とりあえず聞くが、何があったんだ?」 シュラの問いに、私は先程の事を全て話した──────── 「なるほどな。」 「見てないか?」 「色々あってな、急いで帰ってきてドアをぶち破って入ったらお前が倒れていた。」 「そう…か。」 その後、私はシュラからテロとは何か、今何をして来たか、私が会った女はサキュバスと言う魔物だったということ、などを聞かされた。 「とにかく、何度も世話になった、心から礼を言わせてもらう。」 私は彼に向かい、頭を下げた。 「別にいいけどな、単なる気まぐれだ。」 「何かお礼をしたいのだが、あいにく何も持っていないんだ。」 「いいって、ああ、そういやさっき聞きそびれたんだけどよ。ここが何処だかわからないのは百歩譲ってまだいいとして、だ。 丸腰であんなところで倒れていて、しかも記憶が飛んでいるってことはお前もしかしてあれか? 記憶喪失とかいう。」 記憶喪失か…確かにそう思われても仕方が無いな。 「そのことなんだが、落ち着いて聞いてほしい。」 普通、こんな事は話しても仕方が無いし信じてもらえまい、しかし、この男なら、感だろうか、信じてくれる。そんな気がした。 「私はこの世界ではない世界から来たのかもしれない。」 私はこの世界が私の住んでいた世界と違う事、私のいた元の世界の事などをかいつまんで話した。 「………。」 シュラは腕を組んで目を伏せて考え込んでいる。どうやら信じてもらえそうもない。 考えれば当たり前だが。違う世界から来たなど、私が元の世界で聞いても疑うだろう。 「そうか。異世界…ねぇ。」 「…信じるのか? どこの馬の骨ともわからん赤の他人の言うことだぞ?」 「嘘なのか?」 「いや、言ったことに嘘はない。」 「なら信じる。お前が嘘を付く理由がないし───」 「ないし?」 シュラは立ち上がって私を横目に見据えながらにっと笑う。 「お前の目は嘘を付いてるやつの目じゃねえよ。」 目…か。 私はどことなく、窓の外を見上げた。 青い空はどこまでも続いていて、無性に悲しくなった。