異世界 夢うつつの状態にある青年が初めに感じたのは、目蓋を焼く光だった。 妙だな、ボクの部屋の窓は乱立するビルディングに太陽の光を閉ざされていて、朝でも薄暗いはず。 まぁいいや、今日も今日とて学校に行って、授業を受けなければ。そんな事を考えつつ、青年はゆっくりと目蓋を開いた。 途端に、言葉という言葉が青年の脳裏から消滅する。目の前に広がるのは広大な草原。 昨日まではあったはずの壁も、床も、天井も消え去り、雲ひとつない空からは太陽が光を投げかける。 ――これはまた、手の込んだ夢だな。 そう思ったところで、青年はふと考える。今まで夢の中で、これを夢と認識した事があったろうか。 答えは否だった。時たま、そう言ったことになる人もいるらしいが、青年には経験がない。 (まさかとは思うが、テレポート能力でも身につけたか) でなければ、これをどう説明する。青年はそう考えた。 (にしても、仮にそうだと仮定すれば厄介な能力を身につけたものだ) 見覚えのないところに飛んできてしまった。となると地球上の何処へでも飛んでいくのだろうか。 また、意識して発動したものでない以上は、元居たところへ上手く戻れる可能性は低い。 青年は嫌になるほど冷静に考え、そして絶望した。 (全く、超能力も場合によりけりだ) これからどうしたものか、こんな寝巻き姿で。そう考えたとき、青年は異常に気付いた。 ここが北半球にしろ、南半球にしろ、彼は薄手の寝巻き一枚で放り出されたはずである。なのに、全く寒くない。 「どういうことだ」 思わず疑問が口をついて出る。その声に青年は更に驚いた。 聞きなれた自分の声はとは違う、余りに異質な声が耳に響いたのだ。 それは、男のものとはとても思えないほど儚く、澄み渡る声だった。 今こそ我が身の異常に気づいた青年は目をしっかりと開き、上半身を起こし――両胸の膨らみを見た。 愕然とする。触れてみればそれが紛い物でない事はよくわかった。 慌てて青年は跳ね起き、周囲を見回して――恐ろしく長い青髪が、視界に入った――池を見つけ、走り出した。 そうであってほしくはない。いくらなんでもそれはあんまりだ。 懸命に否定する青年を情け知らずの現実が捉えるまで、そう長くはかからなかった。 池に映った己に青年は呆然とする。青年は、少女になっていた。  ※   水に映る少女は、なかなか見栄えのする美少女だった。 腰まで伸ばした青い髪は陽光を受けて輝き、赤い瞳は宝石の如し。 白皙の頬はまるで大理石のようだった。年の頃は恐らく十六か、十七か。背丈はその年頃の少女らしかった。 そして同時に寒さを感じない理由もわかる。彼女は寝巻きなど着ていなかった。 下半身を覆うのはかなり厚手の生地ででた茶色のフレアスカート、 上半身もまた厚手の生地でできたシンプルな服――というよりは鎧のような――に包まれている。 両腕は鋼鉄の手甲で覆われ、両脚もまた、分厚いブーツで守られている。 全体として、彼女の身につける衣服は恐ろしく堅牢にできており、寒空に晒されても寒気を感じなかったのも道理と言えた。 しかし、その服装は同時にある事実をも突きつけた。 彼女の頭の中にある世界中の衣服の知識を総動員しても、自らが身に纏う衣服に該当するモノはない。 「参ったな……ここは、ボクの知ってる世界じゃないらしい」 確かに世界中の衣服を把握しているわけではないが、これほど特徴的な衣装を未だに身に纏う国や民族など、 何処にもいないだろう。それに―― 「これ、明らかに剣だよなぁ」 池の中には、それこそ物語の世界でしかお目にかかれないような二メートルはありそうな大剣が、 まるで彼女に見せ付けるかのように鞘にしまわれた形で無造作に転がっていた。 手に取ると感じるずしりとした重みは、何よりも彼女の想像が現実であることを突きつける。 「目が覚めたら、性別が変わっていて、おまけに異世界にきていました、か。三文小説のネタにもなりはしないような話だ」 だが、どうしようもない。今や自分は三文小説の主人公と化したのだ。そう思うしかない。 水に映る自分の姿も、耳に響く声も、全てが冗談のような現実を突きつけている。なんの因果でこんな―― と、その時。腹部から響いた情けない音が、思考を中断させた。 「……せめて食事を済ませてから、こちらに転移してもいいようなものだが」 言いつつ、何処か人のいる場所はないだろうか、と辺りを見渡す。と、彼方に城壁が目に映った。 距離はそう遠くはないだろう。あそこまで行けば、それなりに人にも出会えるかも知れない。 そう思うと、拾った大剣を背中に括りつけて斜めに背負い、彼女は歩き出した。  ※ つくづく、世の中というのは不条理なものだと、彼女は実感していた。 「おのれ資本主義の走狗ども、人の情けも知らない外道ども、見ていろ、いつか地獄の業火に沈めてやる」 わけのわからない事をぶつぶつと言いながら雑踏を怨霊のような形相で歩く彼女に、 行き交う人々は敢えて関わるの愚を冒さず、目も合わさずに道を譲った。 なまじ端正な容貌をしているだけに、歪めると恐ろしい顔になる。 声をかけようとする軟派な男もいたが、顔を上げた彼女がぎん、と睨みつけると、そそくさと退散した。 (だから嫌なんだ、ファンタジーというのは。性別を変えて、装備まで整えた癖に、 現実に必要な物は何一つ準備しない。路銀ぐらい持たせろ)  要するに、金がない。金がなければ何も食べられず、今日の宿にすら事欠く。 腹は依然として空いている、食事をとれないとわかると尚更すきっ腹が堪えた。 足早に、どこに行くともなく歩く。すれ違う人々の服装や、建物の造りからここが異世界なのだと確信する。 そして彼女はこの世界では無職、住所不定、そもそも身分証明書も持たない異邦人だった。 明日も明後日も、食事にはありつけない可能性が極めて高い。そして結末は緩慢な、死。 (ああ確かに退屈な日常に飽き飽きしていたさ、変化が欲しいとは思っていたとも。 だが、こんなところで不条理な死を迎えるほど、それが悪い想像だと言うのか)  帰りたい、退屈なあの世界へ。いつしか裏路地の奥の奥まで来ていた。手甲で隠した口元から嗚咽が漏れる。 怒りの後には悲しみがやってくるものなのだろうか。そんな事を考える。 涙はとめどなく溢れ、激情に駆られるまま、彼女はその場に両膝を着き、地面を叩いて世を呪った。 くぼみにできた水溜りにスカートが汚れる。だが、そんな事は彼女にとってどうでもよかった。今はただ、悲しかった。  と、その時、背に負った大剣の結びが解け、がしゃんと耳障りな音を立てて落ちた。 その音に我に返った彼女は、剣を取ると暫し考える。 (そういえば何の気なしに拾ったが、一度も抜いていないな)  あんなところに放置されていたのだから、どうせ中身は知れている。現に鞘も柄も酷く傷んでいた。 だが、錆びた剣でもそれなりの値では売れるかもしれない。そう思うと、彼女は剣の柄を握り、鞘から抜き放とうとした――が、 (なんだこれは、抜けないぞ)  錆付いているのだろうか、剣はどれだけ力を込めようとも、鞘から離れることはなかった。 幾度か試みた後、彼女はついに諦めて剣を放り投げた。 「くそ、これでは碌な値では売れないだろうな。やっぱり、八方塞がりか」 『なんだ、売り飛ばす気だったのか』  と、どこからともなく『声』が響いた。 「な、なんだ。誰だ」  思わず立ち上がり、身構えて周囲を見渡す。だが、薄汚れた家屋が目に入るばかりで誰の姿も見えない。 『誰だとはご挨拶だな。まぁ、無理もない事ゆえ、その無礼は許す』 「う、うるさい。誰だ、誰なんだお前は。姿を現せ」 『姿なら、ずっと現しているのだがな』 「くそっ、からかうな、何処にいる」 『わからんか、ふむ、鈍い奴だな。お前の目の前の……大剣だ』  ぎょっとして視線を落すと、そこには茫とした光を浮かべ微かに震える、決して鞘から抜け出ることのなかったあの剣があった。 彼女は思わず腰を抜かしそうになるが、もう驚くのにも耐性がつきかけている。 何とか踏みとどまると、彼女は壁を背にして剣に向かって構える。 「……この世界の剣は随分とお喋りだな」 『安心しろ、剣の中でも私のようなのは少数派に属する。私が話しているのを見れば、十中八九、誰もが腰を抜かすだろうな。 その点お前は大したものだ。褒めてやろう』 「剣に褒められても全く嬉しくないね。それに、喋ろうが喋るまいが、関係ない。興味があるのは売り物としての価値だ」  剣はやれやれ、と呆れた様子で言う。 『度し難い男だな。本来なら触れることすら適わない我を、まだ売り飛ばす気でいるのか』 「当たり前だ。ボクは気味の悪い剣よりも、今日の命が……」  大事なんだ、と言いかけて止まる。こいつ、今何を言った。 「おい、お前、今ボクの事を『男』と言ったか」  自分の姿は誰がどう見ても女である。それをこの剣は『男』と言い切った。一体この剣はなんなのだ、彼女は恐る恐る剣に確認する。 『ああ、言った。お前は異界から召還された男だろう』 「お前、何か知っているのか」  語気が荒くなる。元の世界に帰れるのかもしれない。期待を胸に抱いて、なおも言い募ろうとした、その時。 「おいおい、一人で喋ってるぜ。頭おかしいんじゃねぇか、あのガキ。ったく大丈夫かね」  突如として下卑な声が響いた。見れば、短剣を弄ぶ赤い服の男がゆらりと現れたところだった。 「その方が後腐れなくていいんじゃねぇの。いいからとっととやっちまおうぜ」  もう一人、茶色い服を着た男が現れる。少女になった青年には、彼らに見覚えがあった。 雑踏の中で声をかけてきた男達だ。一睨みで追い払ったが、どうやらつけてきたらしい。 「……っ」  下がろうとして、背中に壁が着く。まずい事にここは路地のどん詰まりだった。 逃れる道は何れも下卑た笑いを浮かべる男達に塞がれている。 「なんだお前達は、一体ボクに何の用だ」 『少なくとも友好的とは言えない用事だろうな』  ぼそりと剣が呟く。だが男達はそれが聞こえないように、けらけらと笑う。 「へぇ、まともな口も利けるじゃねぇか。てっきりキ印かと思ったぜ」 「こりゃ楽しみだな」  冷や汗が少女の頬を滑り落ちる。成る程、池で見た自分の姿ははっとするような美少女だった。 無碍にされて腹を立てた男達は、ひそかに隙を伺っていたのだろう。そう考えると、今の状況にも納得ができた。 怒りに任せてこんなところまで来てしまった彼女は、迂闊としかいいようがない。  じりじりと、獲物をなぶる様に迫る男達、その意図は明らかだ。少女の表情に焦りが浮かぶ。 「くそ、冗談じゃないぞ」  少女は男達に向かって身構えた。だが、今の彼女は寸鉄帯びぬ身だ。 手甲で殴ればかなり痛いだろうが、男達は二人ともナイフを持っている。不利は否めない。 「く……」  丸腰よりはマシと大剣を拾い上げる。だが、男達に動揺はない。 「抜けるもんなら抜いてみなよ」  何度も抜こうと、力を込める少女をあざ笑う。十分に観察していたのだろう。抜けない事は承知しているようだった。 「くそっ、くそっ、くそっ、この役立たず。偉そうな口を叩くくせに、数打ち刀の値打ちもないのか」 『酷い言われようだな。我にもお前同様、色々と込み入った事情があるのだ』 「うるさい、必要なときに必要な力を出せないで、何が武器だ。悔しかったら何とかして見せろ」  じりじり、じりじり、男達は必死な少女を嘲笑しながらゆっくりと足を進める。少女は殆ど叫ぶように剣に語りかけた。 『ならば我と契約するがいい。さすればお前は、無限の力を手に入れるだろう』 「契約だと」  少女は思わず問い返す。 『そうだ、契約を以って我は始めて力を発揮できる。まぁ、色々と互いを縛るのが契約と言うものなのだが……』  一旦言葉を切って、剣は意地悪く語りかける。 『どうする。我はどちらでもいいぞ』  否も応もない。既に状況は最悪なのだ、これ以上悪くなることはない。そう思うと少女は叫んだ。 「ああ契約してやる。契約してやるとも、だからさっさと力を貸せ」 『なら叫べ、我が名を、我が名は……』 「お話は終わったかい、嬢ちゃん」  男はナイフの背に指を這わせつつ、そう言った。 「それじゃ、お楽しみと行きますか」  言うと、男達は大きく足を踏み出し、右腕を少女に伸ばす。その時、少女は柄を強く握りしめ、高らかに叫んだ。 「我は異界の住人、彷徨う魂。鉄剣の王よ、我に力を貸したまえ、汝が名は――『名もなき国王』!」