ポケットから携帯電話を取り出し、時刻を確認する。 『20時50分か……ギリギリ、かな?』 足早にアパートの階段を上り、自分の名前の書かれた扉の前に立つ。 『鍵、鍵……っと』 背広の内側ポケットに手を入れ、鍵が入って無いことを確認した後、 右側のポケットからアパートの鍵を取り出し、ドアノブに鍵を挿し込み錠を開ける。 扉を開け、部屋の灯りを点けた後、無造作に靴を脱ぎ捨てて部屋の奥へと歩みを進める。 慣れた手つきで背広と開襟シャツをハンガーに掛け、最近愛用しているパソコンの電源をつける。 ゆっくりとOSが起動し、十数秒後にはデスクトップ画面が映る。 そしてデスクトップ画面に表示されている一つのアイコン、【ラグナロクオンライン】をダブルクリックして起動させる。 パソコンに表示されている時刻を見て、少し気が急く。 『20時59分…………本当にギリギリじゃないか……』 そうぼやきながら、キャラクターセレクト画面の1番左に表示されているナイトを選択し、Enterキーを押す。 プロンテラ西MAPのカプラ職員前に一人の女性アコライトが座っている。 時刻は21時2分。21時に待ち合わせをしていたのだが、2分とはいえ遅刻であることには変わりは無い。 俺はパーのエモーションを出した後、キーボードに指を走らせてメッセージを打ち込む。 『メーア! ごめん、遅れた! 待たせちゃったかな?』 メーアと呼ばれた女アコライトは俺の騎士がいる方向に向き直ってパーのエモーションを出す。 「土曜出勤、お疲れ様ー、リヒト! 私もさっき来たばっかりだし、気にしなくていいよ」 リヒト、それが俺の騎士の名前だ。ドイツ語で光や明かりを意味している。 我ながら惚れ惚れするほどの安直なネーミングセンスだったが、今はその話は置いておこう。 それにしてもモニターを見渡す限りでは、リヒトとメーアしかいない。 いつも口やかましいギルドメンバーや、この付近を溜まり場にしているキャラクター達、 通り道としてこのMAPを横切るキャラクターはおろか、あまつさえBOTの1体も歩いていない。 今日は土曜日、しかもこの時間帯なら誰かしら人一人はいるはずである。 しかし、俺はそんな状況を異常だとは感じていなかった。 寧ろ、これ見よがしにイチャつき放題だ、と思っていたくらいなのだから。 「世界中で2人だけみたいだねー」 どうやらメーアも同じことを考えていたようだ。 しかし、可愛いことを言うものだ。その言葉に自然と笑みがこぼれ、気が安らぐ。 『はは、それじゃあ、どこか狩場を決めてデートといきますか』 「賛成ー! うーん、どこがいいかなー……私たちのレベルだと、ゲフェンダンジョン2Fが妥当かな?」 『だろうね。ゲフェンのポータルメモはある?』 「あるよー。今直ぐ出すね」 狩場も決まったところで、メーアがワープポータルを唱え、リヒトの真横にポータルが開く。 『じゃあ、先に行ってるよ』 そう言葉を残し、リヒトをワープポータルに乗せる。 いつもならローディング画面の後、ポータルメモを取った場所に転送されるはずである。 ……そう、いつもなら。 だが、リヒトがポータルに乗った瞬間、画面が暗転したかと思うと、 モニターは何も映すことなく真っ黒な液晶を曝し、程なくしてパソコンは静かに沈黙した。 『どうなってるんだよ、これ……』 突然パソコンが動かなくなった原因が分からず、俺は頭を悩ませた。 パソコンの故障ではないとは思う。俺がROを始めたのは半年前であり、それと同時に購入したばかりだったからだ。 というより、買って半年で故障したなんて思いたくもないし、信じたくもない。 知らない間に何かウィルスにでも感染していたのだろうか? それはないはずだ。ここ半年、RO・Word・Excelの3つ以外を起動させたことは無い。 インターネットエクスプローラーやメーラーは、パソコンを購入した初日以来起動させた覚えはない。 他に何か原因でもあるのか? しかし、これではメーアに申し訳が立たない。 先に行ってる、と格好つけて言葉を残してしまったから尚更だ。 パソコンが動かなくなって30分程経過し、どうしたものかと考えあぐねていると、突然携帯電話の着信音が鳴り響く。 俺は慌てて携帯電話を手に取り、ディスプレイを確認する。 相手はメーアのプレイヤーだ。俺が来るのが遅いから文句でも言う為に電話を掛けたのだろうか。 頭の中であれこれ言い訳を考えつつ、覚悟を決めて応対することにした。 『はい、いちじょ―――』 「あ、もしもし? 私だけど、ごめんね!」 何故俺が謝られているんだろう? てっきり文句を言われるものだと思っていた俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。 『……へ?』 「ポータルに乗った後、画面が真っ暗になっちゃって、パソコンも動かなくなっちゃって―――」 『何だって?』 俺とまったく同じ状況じゃないか! 益々訳が分からないぞ……。一体何がどうなってるんだ? 俺が思考を巡らせている間、彼女が続けて何かを言っていたが俺の耳には入らなかった。 「と、とにかくそういうことだから! じゃあ、また後で電話するね!」 『あ、おい!』 一方的に切られた電話をしばらく見つめた後、俺は携帯電話を握ったままベッドに体を投げ出した。 パソコンは暫く放っておこう。俺のようなパソコン初心者があれこれ弄繰り回しても事態を悪化させかねない。 それに明日は日曜日だ。仕事も休みだし、原因を究明する時間は充分ある。 俺は仰向けになり、ポケットの中にある硝子細工の指輪と携帯電話を天井にかざし、さっきの電話の声を反芻する。 ―――俺の気になっている女の子の声。 『今、高校2年生だっけ……。もう3年は会ってないんだよな……。…………』 なんだか急に眠くなってきた……。仕事疲れの所為だろうか? そう思っていると動かなくなっていたパソコンが異音を立て始める。 『……まぁ、いいや……。……確認するのは……仮眠を取ってからにしよう……』 そうして俺は眠りに落ちていった。 まどろむ意識の中で、俺は空を見ていた。 深く曇った空。降り止まない雨の音。体の外へ流れ出ることを止めない俺の血液。 ―――そして俺の傍らいる、泣き止まない女の子。 「ごめ、なさい……ごめん……なさ……」 聞こえてくるのは震える彼女の声。とても弱々しい、か細い声だった。 ああ、俺の為に泣いてくれているのか。そう思うと不思議と笑みがこぼれた。 「……どう、して、笑ってる……の? ……痛いん、でしょ……?」 俺は彼女の方へ手を伸ばそうとする。しかし、俺の手が動くことは無かった。 ならせめて、せめて言葉を掛けるくらいは――― 『俺は……君が―――』 無事ならそれでいいんだ。 そう声に出そうとした時、俺の意識は覚醒した。 はっきりとした意識の中で、俺は空を見ていた。 雲ひとつない、抜けるような青空。まぶしく照らす太陽。やさしくそよぐ風。緑色に広がる平原。穏やかに流れる川の音。 ―――そして俺の傍らを通り過ぎる、1メートルはあるだろうピンク色の丸い物体。 『って、おい! ちょっと待て!?』 そんな俺の声を聞き入れるはずも無く、ピンク色の丸い物体はぽよんぽよんと小さく跳ねながら俺の視界から遠ざかっていった。 『今の……ポリンに似ていたな……』 似ているにも程がある。現実にはあんな生き物はいないだろうし、いるとしたらROの世界だけだろう。 『……ROの世界?』 いやいや、そんな馬鹿な話があるわけがない。あるわけがないのだが……どうにも嫌な予感がしてならない。 5日前までの食事のメニューや、自分の口座に振り込まれている貯金の残高に、 お気に入りのグラビアアイドルのスリーサイズも正確に思い出すことができる。 ここまで意識がはっきりしている以上、夢を見ている訳ではなさそうなのだ。 『考えていても仕方がない。ともかく少し歩いてみるか』 そう呟きながら腰を上げようとした時、俺は初めて自分の体の重みに気づいた。 それに金属の擦れ合う音がする。俺はそんなものを身に着けていただろうか? 近くに流れる川の水面を覗き込むと、そこに映し出された俺の姿は、俺のよく知っている装備に包まれていた。 金属製の兜と鎧にブレスレット、少しだぼだぼした厚い布地のマント、革製の大きなブーツ、背中に背負った幅広の両手剣。 それらの装備は俺のキャラクターであるリヒトが身に着けていたものだ。ただし、左腕だけは違う。 左腕に着けているブレスレットには見覚えがなかった。 よくみると、そこには見たこともない文字と数字の羅列が刻まれていた。 そう、文字と数字である。一度も見たことがないはずなのに、俺には文字と数字だと理解できた。 ブレスレットの文字は、俺のよく知っている名前が刻まれていた。 『リ、ヒ、ト……。だとすると、ここは、本当の本当に、ROの世界、なのか?』 改めて口に出した時、俺の声は震えていた。感情を抑えられなくなり、俺は叫びだしていた。 『何なんだよこれはッ! 何でッ、どうしてこうなったんだよッ!どうして……ッ』 だが、その叫びに答えるものはなく、俺の声だけが広い平原に空しく木霊しただけだった。 『はぁ……はぁ……ッ、……落ち着け、落ち着くんだ』 そうだ、嘆くことは後でいくらでもできる。とにかく今は。 『今は現状を把握するのが先決だ。この数字の羅列の意味も。それに―――』 左腕のブレスレットから、左手の中指へと視線を移す。そこには硝子細工の指輪がはまっていた。 『この指輪がどうしてここにあるのかも、な』 指輪のはまった左手を空にかざしながら、平原の奥に見える城壁に向かって俺は歩みを進めた。 歩いている内に、ここがプロンテラ西MAPだと確信する。 さっきから自分以外の人間やカプラ職員、道具商人等の姿はどこにもなかったが、 先程の川にポリン、そして60センチくらいの大きさのウサギや、1メートル程の大きさの蛹、 20センチはあるだろう馬鹿でかいゴキブリが生息していることから間違いなさそうである。 ただゲームとは違い、広さが半端ではない。 もう1時間程は歩いているのに、まだ城壁には辿り着けないくらいなのだ。 だが、こんなことで弱音を吐く訳にはいかない。 ここに人がいない以上、現状を把握するには人気のある大きな街、プロンテラに向かうのが最善だと判断したのだ。 ゲームでも一際賑わっているプロンテラだ。何かしらの情報を手に入れることはできるはずだ。 『大丈夫だ、きっと、何とかなる……』 そう自分に言い聞かせるように呟きながら、不安から逃れるようにして歩調を速め、 俺はひたすら城壁に向かって歩き続けた。 段々城壁も近くなってきた頃に、俺の進行方向から人が一人、こちらに向かって歩いてくる。 俺とその人との距離が10メートル程になったところで、その人は歩調を速めて俺の方へ歩み寄ってくる。 臙脂色の服に、肩の辺りに着いた白いケープと、足首まであるだろう白く長いスカート、 腰周りに着いている特徴的な十字模様が描かれた大きな革製のベルト。 その見覚えのある服装から、相手が女性のアコライトであることが分かった。 女性アコライトは俺の前に立つと、見上げるようにして俺の顔をまじまじと見つめ始めた。 綺麗だな。女性に見つめられて照れながらも、俺はそんなことを考えていた。 背中の中程までの長さはあるだろう、少し茶色がかかった綺麗な黒髪。 俺のよく知っている女性アコライトもこんな髪をしていたな。 やや大きき目な黒い瞳に、少し低いが整った鼻、小さくて薄い唇、少しだけ幼さを残す顔立ち。 どことなく見覚えのあるような顔だった。 髪、瞳、鼻、唇、顔立ち。それらの全てが、あの日の泣き止まない女の子の顔と重なって見えた。 「あの……」 その声に俺はハッとする。 「少しだけ、左手を見せてもらえますか?」 そう言いながら、女性アコライトの右手は俺の左手を引き寄せた。どきまぎしながらも、俺はなされるがままにする。 そして先程の声が、俺がここに来る前に聞いた電話の声と重なる。数年前からも聞き覚えのある声。 「リヒト……」 ブレスレットに刻まれた名前を小さく呟いた後、俺の左手の中指にはまった指輪を、女性アコライトは左手で愛しそうに撫でる。 俺は顔を紅潮させながら、女性アコライトの左腕を見る。 彼女の左腕には、俺と同じような文字と数字の羅列が刻まれた金属製のブレスレットが着いている。 更によく見ると女性アコライトの左手の中指には、俺の身に着けている物と同じ造形をした硝子細工の指輪がはまっている。 女性アコライトは嬉しそうに目を細めて、俺の方へ顔を向けると小さく微笑んだ。 「やっぱりリヒト……明(あきら)さん、なんだね?」 明、それが俺の本名。ROのプレイヤーで俺の本名を知っている人は、俺自身を除いて一人しかいない。 面影のある顔、聞き覚えのある声、同じ硝子細工の指輪、俺の名を呼ぶ彼女。 左腕のブレスレットに刻まれた名前を確認する必要もなかった。そうだ、彼女は――― 『メーア……海幸(みゆき)、なのか?』 吹き抜ける風と共に、彼女は一度だけ頷いた。俺に微笑みを向けながら。 よく知っているはずなのに、見知らぬ世界。 ROの世界の中で、俺は彼女と再会を果たした。 To Be Continued...