「おつー」 「また機会があったらよろしくお願いします」 梨歩は臨時PTお決まりの別れの挨拶を打ち込むとチャットを出てキャラを定位置に戻した。噴水広場南側正面。 いつも露店を出している場所にいつものように露店を出した。倉庫の整理をしないといけないから今日はこのまま放置だ。 背伸びをしているとベッド脇に置いてあるデジタル時計の大きな表示が目に入った。 午前 3:17 もう朝が近い。今から寝たら目が覚めるのは昼前だなあと思いながらとりあえず顔を洗おうと洗面所に向かった。 眼鏡を鏡の下の、小物置きにおいて水を出す冷たい水で顔を洗うと重たくなった両目がすっきりした。 ふと鏡を見ると乱暴にひとつにまとめた黒い髪が跳ねて、どこか疲れた寝不足の顔の自分の姿が目に入った。 もうすぐ前期末試験でそれが終われば長い長い夏休みに入る。 そうなればいつでもネットゲームがやりたい放題なのに今日も朝方までやってしまった。まあ明日は日曜だ。 いくら寝ても咎める人はいないが試験は滅入るものだ。 「あー……いっそもうROの中で暮らせたらなあ。テストめんど……」 ふと手元に違和感を覚えた。 さっきから右手は蛇口を回しているのに水の勢いは強くなることもなく緩むこともなく一定だ。 しかもいつまで回しても蛇口は回り続ける。いつものようにきゅっと音を立てて締まらない。 ごぼ、と排水溝が不吉な音を立てた。 「え、ちょっと待って壊れたの!?」 慌てて排水溝に触れようとした瞬間、あるはずのない吸引力を感じた。子供の頃ふざけて掃除機の吸い込み口を触った時のような。 手が、頭が、腰が、黒い穴に飲み込まれた。ほんのわずか数秒の出来事だった。 後には何事もなかったかのように静まり返り、蛇口から水が一滴すべり落ちた。 ------------------------------------------------------------------------------------ 目が覚めてからも梨歩はしばらくその場所を動くことができなかった。呆然として辺りを見渡す。 雲ひとつない青空、ところどころに木々が生い茂っているが見事なまでに何もない。 前方に川でもあるのか水の流れる音がする。実家付近でもここまで何もない平原はない。 どこか見覚えがあるけど思い出せない。旅行で行ったところを思い出していると風が吹いて髪が舞い上がる。 その瞬間、信じられないようなものが目に入った。舞い上がった髪は重たそうな黒髪ではなくよく熟れた苺のように赤い色をしていた。 試しに引っ張ってみたがウィッグではなく、頭頂部のほうで引きつるような鈍い痛みがあるだけだ。 慌てて自分の姿も確認する。ミニ丈のワンピースのような、露出度の高い衣装。どこかで見たことがあるような。 「ケミ、だ」 さっき髪を引っ張った時、確かに痛みがあった。実際に夢の中でも痛覚があるのかどうかは分からないけど 目の前に広がる世界は夢だと言い切るにはあまりにもリアルだった。 「とりあえず誰か人探そう……」 すぐ後ろにカートが置かれていた。名前が書かれているわけではなかったが「これは自分のものだ」と確信を持って思えた。 鉄製のいかにも重そうなカートは引いてみると意外に軽く動き出した。座っていた時は分からなかったが 東側はずっと高い石壁があるのが見える。脳内RO知識をフル回転させて場所の当たりをつける。 東側に高い壁があって平原。モロクフェイヨンではありえない。アルデバラン周辺はこんな緑色ではない。 ゲフェンなら大きな橋大きな川があるはずだ。とすればここはプロンテラ西。 もし本当にここがROの世界でプロ西ならこの橋を越えればあれ――あの人というべきか――がいるはずなのだ。 一歩一歩進むと確かにいた。本当にいた。オレンジ色の髪をして大きなエプロンをしている女性。 ゲームの中では1歩も動かずただお辞儀をしているだけのあの人は今動いて、隣の金髪の青年と話をしていた。 「あ、あの……」 女性は笑顔で梨歩を出迎えた。 「いらっしゃいませ! カプラサービスはいつも皆様のそばに……あらァヘイゼル。こっちにまで出て来るのは久しぶりねえ」 「ヘイゼル……私のことですか?」 「あんた以外に誰がいるの。大丈夫? 何か顔色悪いけど……何する? 倉庫? ここ転送はできないからね。今度は間違えないでよ」 「大丈夫、ちょっと寄ってみただけだから。さよなら!」 逃げるようにその場を去った。決まりだ。どんなに認めたくなくてもそうなのだから仕方ない。 ヘイゼルは露店・清算用に作ったケミだ。そして何よりもあれはゲーム内にいるカプラだ。 「カプラが喋ってたーーーー」 決まったことしか喋らないカプラとお話してしまった。そのことに思わず逃げ出すほど驚いてしまった。 本当に生きているんだ。カプラ。 さっき見えた石壁は予想通りプロンテラの城壁だった。 ゲームの中のプロンテラも広かったが実際に歩いてみると途方もなく広い。 西門からまっすぐ歩いて噴水広場が見えるところまで行くのにかなりの時間がかかってしまった。 いちいち立ち止まって「本物の○○」をじーっと見ていたせいもあるのだが。 噴水広場に入ると急に人が増えた。ざわめきに加えどこかで肉を焼いているようないい匂いもする。 公園というよりは活気のある市場のようだった。 「ヘイゼルー」 声がしたほうを見ると噴水の西側でこちらに手を振るアルケミストの姿が目に入った。 背の高い毛先の跳ねた青い髪の背の高い男性だ。おいでおいでと手招きされたのでヘイゼルは首を傾げながら近寄る。 「狩り帰り?」 「今日はちょっとぶらぶらしてるだけ……なんだけど」 ふと「豆商店」と書かれた手書きの露店看板が目に入った。相棒の露店だ。 「ラッカ?」 ヘイゼルは目を丸くして青年の名前を呼んだ。 「まあ座りなよ、さっき話しかけようと思ったら間違って蝶でも使ったのかと思うぐらい急に消えて。何にやにやしてんの」 「ラッカと会えたから!」 「……どうしたの急に。別にいいけど。手出して」 言われたとおりに手を出すとミスティックローズを乗せられた。宝石がいくつもついている割には軽くできていた。 「この前露店で見かけて似合いそうだなって思って。ギルドの研究発表頑張ってたし、プレゼント」 限りなく無表情に近いラッカの顔にわずかに笑みが浮かんだ。何だか照れくさそうだ。 「ありがとう!」 「狩りに行く前に渡せてよかった。ヘイゼルも来る? うちのギルドの奴ばっかりだけど」 「あ、あたしパス。ごめんね」 「ヘイゼルも家に篭るか姉さん達の戦果ばっかり売ってないで狩りに行くんだよ」 ラッカはヘイゼルの頭をぐしゃりと撫でるとカートを引いて南のほうへ消えていった。 ヘイゼルは露店を出すわけでもなくその場でしゃがみこんで深いため息をついていた。 頭にはさっきもらったミスティックローズが付けられている。 「『研究発表』だって。ゲームの中だと思ってたのにこっちでもちゃんと生活があるんだ」 遊園地みたいなアトラクションから急に現実に引き戻されたような感じだ。 南のほうが妙に騒がしくなってきた。古びた枝が折れるような乾いた音がすると辺りが騒音と悲鳴で溢れた。 とりあえずここから逃げようとあたふたしていると「子供が描く虫歯菌」を赤くしたようなものが現れた。ミニデモだ。 背後は噴水、ミニデモはさらに取り巻きのデビルチを召喚して退路を塞いだ。 逃げる暇も剣を抜く暇もなく悲鳴を上げることもなくあっという間の決着だった。 とどめとばかりにダークサンダーが打ち込まれ噴水まで吹き飛ばされる。 水柱を立ててヘイゼルの体は噴水に沈んだ。水の幕の向こうで青い光がきらきらしているのが最後に見た光景で ぶつりとそこで意識が断ち切れた。 --------------------------------------------------------------------------------------- 無機質な電子音がした。 覚醒を促すその音はやがて音を強めけたたましい音量が部屋中に響いた。 亀のような動きで手を伸ばし目覚まし時計を止めるとのろのろと体を起こし座り込んだ。 時計の表示は「午後2:15」となっていた。いつもの自分の部屋だ。 「……寝落ちしてたのかなあ……」 やたらと生々しい夢を見た。ROの中に入り込んでいて私は自キャラのアルケミストになっていて相棒のラッカも出てきて ミスティックローズをもらった。その後テロにあっていた。フルカラーで痛みもにおいもあった。 立ち上がろうと体をひねった瞬間あちらこちらで痛みが走った。 「いぃぃぃったーーーい!!」 慣れない運動をして全身筋肉痛になったときとよく似ている。よく見てみれば体のあちこちが擦り傷切り傷あざのオンパレードだ。 「こんな怪我するようなことやった覚えないんだけど……露店見よ」 痛む足を撫でながら立ち上がってつけっぱなしのパソコンを覗き込むとちょうど大規模テロの真っ最中で 周りの多くの商人と同じように自分のキャラクターも転がっていた。 噴水広場の西側で。 限りなく噴水に近いところで。 露店を出したログは残っていたが画面上では露店は閉じられていた。 何となく装備欄を開く。 持っていないはずのミスティックローズを装備していた。 「……これさっき見た夢と……同じような……」 左手の近くに何かが落ちる音がした。薔薇を象った白い宝石に赤いリボンがついたとても高級そうな髪飾りだ。 「これほんものの……!」 全て言い終わらないうちにそれは茶色く濁り、音もなく割れて粉々になくなってしまった。 「……私、まさか本当にこの中に……」 梨歩はただ呆然とディスプレイを見つめていた。テロは終わることなく騒音を撒き散らしてまだ続いていた。 --------------------------------------- ここまでお読みいただきありがとうございました!