きまずい沈黙が二人の間に落ちていた。  何というか、今までの俺には全く縁がなかったというか縁があるはずがなかったというか。  金髪碧眼のあからさまに日本人じゃないですよ、という事を視覚だけで伝えてくれる少女が潤んだ 瞳のまま俺のことをみつめ……いや、睨んでいた。    「………」  「………」    俺達が今居る場所は食堂。丁度時間は昼間になった頃のようで、3人居るウェイトレス――この場合 は給仕さんと言ったほうが似合うのかもしれないけれど、何となく黒髪じゃない人の事をそう言うの は気が引ける――さん達は慌しく働いているし、ひっきりなしに訪れる新しい客は店の中や店の前で 列を作っている程だった。  にもかかわらず、俺達は目の前に出されて既に冷めてしまった料理に手も付けずに二人して黙った まま。厨房に立って忙しそうに料理を作っている女主人の視線がとても痛い。  「………うそつき」    ぼそり、と少女が小さく呟いた。俺の事をじっと見つめている青い瞳からつと一筋涙が零れ落ちる 。  周囲ではひっきりなしに声が上がり、騒々しいと言っても過言ではないのだけれど、何故か少女の 一言は俺の耳にはっきりと届いた。    「………って。言ったじゃないですか」  でも届いたからといってなんというかそれは俺には答えられないというかなんというか。  その問いに対して俺は答えを持っていないというよりも答える権利すら持っていないわけで。  そもそも、その少女が言葉を叩きつけている俺は少女が考えている『俺』ではないのだから。  話は少しだけ前に遡る。  取りあえず目を光らせてみようとしたたが、光らなかった。  個人的にお気に入りのエモーションの/e13(キュピーン)である。何か興味深い事があったり何か 楽しい事があったりすると取りあえずそれ。  俺の中では使用度がダントツでNo.1であったそのエモーションはどうやらゲームとしての演出での み存在しているのであり、実際に目が光っていた訳ではなかったらしい。とても残念なことだ。  まあ、それはそれ。鏡の前で目を光らせようと試行錯誤する事15分。とても無駄な時間を過ごして しまった。いやまあ時間は沢山あるんだから良いのだけれども。というか、歳を取るのだろうか。  上を見て、下を見て、右を見て、左を見て。  うん、ここはトイレだ。それ以外の何物でもない。  刺激臭がしない上に他に入ってくる人が居ないところを見ると、このトイレは使われていないかそ もそもトイレを使う必要がないのか。  後者だったら言うのは憚れるのだけれど、とても残念だ。いや、何が?なんて聞かないで欲しいの だけれど。具体的にいうと冒険中の女の子とか。答えるな、俺。  「って、何で俺はこんな所で考え事してるんだ?」    鏡の中の俺に問いかける。勿論答えは返ってくるはずが無い。  とりあえず外に出ることにした。  扉に手をかけて横に開くと、強い日差しが俺の目に飛び込んできた。そして同時に強い熱気が俺の 冷えた体を撫で上げる。  「暑……」    季節はどうやら夏なのだろうか。いきなり目の前を薄着というよりも薄絹と下着のみを纏った様に しか見えない美女が歩いていき、ぎょっと体を仰け反らせる。しかも、その髪の色は薄い緑色。  一瞬何かの祭典でもやっているのかと疑問に思ったのだけれど、よくよく考えてみると、今目の前 を歩いていったのはダンサーだったのだろう。  動悸の激しくなった心臓を軽く押さえ、何事も無かったかのように平静を保とうとする。のだけれ ど、目の前をひっきりなしに薄着の美女や美少女が歩いていくので、今ひとつ効果があるように思え ない。まあ確かにこれだけ暑いのであれば薄着にもなりたくなると言うものだろう。かくいう俺も鎧 を脱ぎたくて仕方が無い。想像していたのとは違って重くは無いのだけれど。  「とりあえずどうしたらいいんだか」    呟いても勿論答えなんて出るはずも無い。  何故だか分からないのだけれど、自分がROの世界に入ってしまったことだけは『理解して』いた。 けれど、一体何をすれば良いのかは分からない。そして、自分が誰なのかも分からない。  本当の『俺』は誰なのかは理解している。けれど、俺が誰なのかは分からない。  名前は分かる。レオン=ハルト。レベルもステータスも分かる。87のAgiカンスト>Str騎士だ。  レオンハルトという名前を分けただけにしか思えない安直な様なそうでないような微妙な名前なの だけれど、俺の名前らしい。    不意に視線を上げると、薄緑色の涼しげな下着が目に飛び込んできた。  もとい、赤毛でちょっとくせっ毛でひざを立てて座りながら露天を開いているまーちゃん(女商人 )が視界に飛び込んできた。その子は俺の視線を感じたのか、軽く眉を上げながら軽く微笑みながら 俺を手招きする。   故意ではないとはいえ少し後ろめたかった俺が躊躇していると、その子は立ち上がり俺の方へとゆ っくりと歩いてきた。  「こんにちは。何か買っていってくれませんか?」    下着を見たことを責められるかと思っていた俺はちょっと拍子抜けをしてどう答えて良いのか分か らずに少し黙っていると少女は不思議そうな顔をして軽く小首を傾げた。  「えっと。よければ見ていって貰えると嬉しいんですけれど。あ、ウチは消耗品が専門なので、高 価な物は扱っていないんですけれどそれでもよければ」  俺は無意識のうちに口元を押さえていた。  可愛い。なんて可愛い。その言葉に尽きる。  俺より背が低いので俺の瞳を見ようと無意識のうちに上目遣いになっている上に、今まで見た人達 と同じように顔立ちはとても整っている。髪の毛を押さえているのはサークレットだろうか。両手は 前に垂らして前にかけている鞄の下辺りで左手を上に組んでいた。営業スマイルなのかもしれないが 、にこにこと楽しそうに笑っている笑顔がとても愛らしい。    「じゃ、じゃあ。ちょっと見せてもらおうかな」  「はいっ!」  輝くような笑顔、というのはああいうのを指すのだろうか。  ああ、くそ。語彙の無い自分が恨めしい。  可愛いを可愛いとしか表現できないなんて。今度辞書でも買って来るべきなのだろうか。  「えっとですね。今置いてるのがこれなんです」  そう言って少女が俺に見せてくれたのは手書きのポップ……ではなく、商品表だった。  『赤ポーション 45z 紅ポーション 180z 黄ポーション 4600z 青ジェム550z』    「ごめんなさい、まだそんなに交渉上手じゃないんで仕入れ値が、その。ごめんなさいっ」    そう言って少女は頭を下げる。  要するに、この値段で買ってもらいたいという事なのだろう。  確かに売れないからといって値下げして仕入れ値を割ってしまっては元も子もない。だけれども、 確かにこの値段では売れ残ってしまうのだろう。このポーション類が腐る等してダメになるのかは良 く分からないのだけれど、在庫をずっと抱えたままというわけにもいかないという訳か。    「……あれ?」  「え、どうかしましたか?」  「いや、ちょっと気になったんだけど、なんで黄ポーションが4600zなのかな、って」    え、と少女が声を上げて一覧表を見直す。すると確かに黄ポーションの値段が4600zになっていた。    「うわ、ごめんなさい。これ460zの書き間違いです。こんな値段じゃボッタクリですよね」  「確かになぁ」  「すぐ書き直しますんで。ちょっとだけ待ってくださいね」  そう言ってまえにかけてある鞄の中からペンを取り出し、4600zに横線を引き、新たに460zと書き直 した。俺と目があうと恥ずかしそうにえへへ、と軽く頭の後ろをかくような仕草をする。  「商人になってからまだ日が浅いのかい?」  「え、日にちですか。多分もう2年ぐらいにはなると思いますけれど、まだまだですねえ。修行ある のみ、ですよ。私は商売のセンスがあまり無いので。ついでに言っちゃうと本当は研究とかをしたいん ですけどね」  要するに、ケミ志望のまーちゃんという事になるのだろうか。確かに、このぽややんとした柔らか 気な感じではBSは向いていなさそうだった。ホムに助けてもらいながら頑張って戦っているという姿 の方が似合いそうだ。似合う似合わないで何になるか決めるというのはどこか間違っている様な気も するのだけれど。    に、しても二年でも『まだまだ』なのかぁ。ゲームであれば二年もあればかなりのレベルに到達し ていると思うんだけれどなぁ。ま、何度も精錬破産して半引退を繰り返した俺が言うことじゃないん だろうけどさ。  「んーっと、ところでこれ何本ずつあるんだい?」  自分の財布を開いてお金が入っている事を確認してからポーション類を指差し、そうたずねる。  財布の中には100,000(100k)紙幣が10枚と50,000(50k)紙幣が1枚。後は10,000(10k)紙幣が一枚 と、後は1,000z硬貨以下のコインが数枚という感じだった。  これは多いのか少ないのか判断が出来なかったのだけれど、この少女の露天の物を買い占めてもお 釣りが来る事は間違い無いだろう。  「えっとですね。赤が25本。紅が13本。黄が7本です」  「じゃあそれ全部貰おうかな」    ほえ?と、少女が目をぱちぱちとさせた。      「あ、えっと。聞き間違え……ですよね。何か全部って聞こえてしまったんですが」  あははと少女が笑うが、目がきょろきょろと左右に動いているところをみると、本当であって欲し いと思っているのだろうか。  「ううん、全部でいいよ」  「どうしてですか?」  少女が本当に不思議そうに首を傾げた。  「他で買えばもっと安く買えると思うんですけど、何で全部買ってくださるんです?」  「うーん、なんていえば良いのかな?」  君が可愛いから、じゃあまりにもあざとすぎるだろうし。  うーん。どう言えばいいんだろう。  こういう経験ないから全然わからないなぁ。  「もしかして臨時でどこかに行くんですか?それでしたら開始時間にお届けしますけど」  「あ、うん。そうなんだ。ある程度の数が纏めて欲しくてね。じゃあお願いできるかな?」  「はいっ、喜んで。お代はその時でいいですよ」  「何時になるかまだ正確には決まってないから、先にお金は払っておくよ」  「そんな、悪いですよ」  「良いって良いって。逃げたりしないなら全く問題なんて無いさ」  「私逃げたりなんてしませんよ?」  「冗談だって。分かっていたんだろうけどね」  「勿論分かっていますよ。それでは、計算させて頂きますね」  そう言って少女は鞄に再び手を差し込んだ。そして中から何だか良く分からない物を取り出す。そ れを動かしているところを見ると日本でいうとそろばんみたいな物に該当するのだろうか。  「赤ポーションが1125zで紅ポーションが2340z。黄ポーションが3220zで全部で全部で6685zになり ますっ」  「はい、じゃあこれ」  そう言って俺は10k札を渡した。すると少女はありがとうございます、と軽く一礼をして鞄の中から コインで3215zを取り出し、俺に差し出した。  「ありがとうございましたっ」  そう言いながら少女はぎゅっ、と俺の手を握る。  とてもあたたかくて柔らかくて。なんだか俺はとても幸せな気持ちになった。    「じゃあ後でまた頼みに来るよ」  「えっと、じゃあ私は一度仕入れに行くので、三十分後ぐらいにはまた同じ場所にいると思います 。居なくても逃げたなんて思っちゃ嫌ですよ?」  「はは、分かっているって」  「えへへ。じゃあまた後でお願いしますねっ」  地面に敷いていたシートを丁寧にたたみ、それをカートに詰め込んだ。  「それでは」と言って一礼をして少女は去っていった。一度ぐらいは振り向くかな、と思っていた のだけれど結局一度も振り向く事無く去っていった。何となく寂しいのは気のせい……だろう。    はてさてどうしたものかと考えていると、後ろからつんつんと誰かにつつかれるよう様な感覚があ り、振り向いた途端にバチーンという大きな音とともに横から凄まじい衝撃を受け、俺は地面へとな ぎ倒された、一体何が起こったのかと慌てて上半身を起こすと、そこに見えたのはピンク色のスカー トの間から覗き見えている黒いガーターベルトと同じ色をしたニーソックス。そしてそれらに護られ ている様にも見えるやわらかそうなふとももだった。  恐る恐る上を見上げてみるとあからさまに怒っています、という表情を浮かべた金髪碧眼の少女が 俺の事を睨みつけていた。    「レオンさんは、約束したのに、また他の子に手を出そうとするなんてっ!」  ああそうか、とそこでやっと気がつく。  要するに俺ではなく『俺』の知り合いか。レオン=ハルトの。  「レオンさん。ちょっと、聞いているんですかっ!」  少女が興奮しすぎているせいか、妙に俺は落ち着いていた。  俺は修羅場というものを経験した事はないのだけれど、もしかすると『俺』はそういう経験が沢山 あるのかもしれない。    「なあ、ちょっと落ち着けよ。皆が見てる」  「いやですっ。もう何度も何度も、何度も何度もっ……やっと、私……」  「いやだから取りあえず落ち着いてくれマジで頼むからっ!」  「嫌です。黙らせたいならいつもみたいに無理やり唇を奪うでもなんでもすれば良いじゃないです か!」  「ちょ!?」  「聞いているんですかレオンさん!」  「いやだから落ち着けって」  「い・や・で・す!」  何というか、晒し者。  唇を奪う? そんな事出来る筈ないじゃないか。  いや、出来る事は出来るんだろうけれど、そんな事をすれば一発で別人だとばれてしまう。  まあばれてしまう事それ自体はいいのだけれど、そしたら全く知らない人にキスをされてしまった という致命的な事実だけが後に残るというわけで。  「な、なあ。とりあえずそこの店にでも入らないか? 俺は逃げも隠れもしないからさ」  「………逃げないんですか、今日は」    苦し紛れに言い放ったその言葉に急に少女は静かになった。何故だろう。レオンは直ぐに逃げてい たのだろうか。  だとすれば、もしかすると今も逃げなくてはいけなかったのかもしれない、と反省するのだけれど 当然それは後の祭り。  「じゃあ、いいです。そこの店、入りましょうか」  「あ、ああ。じゃあ入ろう、奢るよ」  「いりません。どうせ私のお金じゃないですか」  「…………」    おい、『俺』お前ってこの子に金貢がせていたのか?    そして、時は再び元に戻る。  俺は一体どうすれば良いのか分からずに少女の潤んだ瞳と女主人の段々殺意を増してきている瞳の 合計四つに見つめられて固まったまま。  再び少女は小さく呟く。    「………って。私と結婚してくれるって言ったじゃないですか」  そう言われてもなぁ。  ため息をつくわけにもいかず、二体の蛇に睨まれた蛙になった気分のまま俺は微動だにせずにじっ とその場に座っている事しか出来なかった。