「にゃ!…ゆ…夢か。おさかにゃくわえて走ったら女の人に裸足で追われる夢を…。 お日様にまで笑われるにゃんて何て夢にゃ!」 さらに果物の中で踊っていたような気もするが、思い出せない。そんな俺の眠気を完全に振り払ったのは、ルーシエの声だった。 「私には今のお前の姿が夢であって欲しいぞクラウス」  辺りを見回すと、朔夜とルーシエの姿が視界に入る。おや、ルーシエの背後から視線を感じるぞ。目をこらしてよく見ると、小さな お嬢さんが居るのが分かった。こちらと目が合った瞬間、また「さっ」とルーシエの背後に隠れてしまう。俺は吹っ飛んでしまった 記憶の糸を必死でたどった。ああ、気を失う直前、小さな騎士のお嬢さんが目に映ったっけ。そういえば、気を失う前にルーシエが 何か、叫んでいたような。ええっと、「私の娘」だったかな? そこまで思い至った時、俺はようやく自分がここに寝かされている理由 と、ルーシエ姉妹が傍に居る理由を理解した。推測が正しければ、俺はルーシエの娘さんを驚かせてしまったらしい。それは、飛ばされて も文句は言えないな。こちらとしても、ルーシエに娘が居たとは寝耳に水だ。びっくりさせてしまって、申し訳ない。  思うことがあって、俺はふと窓の方へ目を向けてみた。くそう、まだ日は暮れていないな。つまり、ローズマリーさんの課したペナル ティーは、まだ俺を縛っているという事だ。困ったなぁ…本当ならば居住まいを正し、しっかりと二人にお詫びを言いたい。でも、 語尾には「にゃ」を添えなくてはいけない約束だ。これじゃ、こちらの誠意が伝わるかどうかアヤしいものだ。何よりも、せっかく会えた ルーシエの娘さんに与える印象を、これ以上悪くしたくない。しかし、状況は待ったナシだ。 「さて、起きたところでなんでそんなふざけた格好をしているのか理由を聞こうか」 ルーシエとしては、こう問わずには居られなかっただろう。当然の事だ。しかし、俺はいよいよ追い詰められる。 ええい、明日になればいくらでも釈明はできる!俺は意を決して答えた。 「クラウス?あの暴れ者のクルセの事かにゃ?」 次の瞬間、こちらの思っていた通りに戦況は悪化した。娘さんの目に浮かぶ怯えの色はますます濃くなる。ルーシエはいよいよ、顔に 優しげな微笑を浮かべてこちらを見据えている。ルーシエさん、恐い、恐いよ。聖母子像の高名な作者なら、是が非でも絵に残したいと 思うだろう優しい笑みは、しかし同時に言い知れぬ迫力を湛えていた。朔夜はと言えば、腰の後ろに手を回して、据わった目でこちらを 見ている。武器を握っているんですね、分かります。しかし、こちらもルビコン川を渡ってしまった。もはや、こちらの思惑通りに 事が運ばなければ破滅あるのみだ。そんな俺を見据え、相変わらず迫力満点の笑顔でルーシエは尋ねてきた。 「クラウスじゃない、と言うならあなたは誰なの?猫ちゃん。」 「僕はワイリーってんだにゃ!娘さんを驚かせちゃって、本当にすまにゃい。」 ルーシエの笑顔を正面から受け止め、顔の筋肉を総動員して表情から恐怖を打ち消す。このふてぶてしさ、我ながら呆れるぜ。 「ワイリーちゃん、クラウスはどこに行ったの?」 「それは知らにゃあ。でも診療所で聞いたんだけどにゃ。所長さんから罰を受けて、どこかで罪を償っているそうにゃ。」  返事の前半でルーシエの柳眉はついに釣り上がり、武器を隠した妹にいよいよゴーサインを出すかに思えた。しかし!こちらの返事を 最後まで聞いた時、ルーシエの表情と部屋の空気は一瞬にして緩んだ。その顔には本物の温かさが宿り、目の奥からは遊び心が伝わって 来る。こちらの気持ちを察してくれたようだ。ふう、際どい所で賭けに勝てたぞ…。思わず頬が緩んでしまう。きっと、俺もルーシエと 同じような笑みを浮かべているのだろう。そうなんだ。これはペナルティーであり、償いの一環なんだ。  母の背中越しに、俺の目に浮かぶ諧謔の心を読み取ったのだろう。今や、娘さんは強い好奇心いっぱいの視線を、こちらに注いでいた。  言い逃れをしようなどと、卑怯な事など考えていない、というのは分かってもらった。でも、ルーシエはまだ、俺に質したい事がある みたいだった。 「ワイリーちゃん、私はね、お祭りでお餅の店を手伝っていたの。クラウスは来たかったみたいなんだけど、叶わなかったらしいわ。 何か、クラウスから聞いてる事はない?」 「にゃにもにゃー。」…と言おうとして、俺は言葉を飲み込んだ。ルーシエの顔に、少しだけあの迫力が戻ってきていたからだ。 何か隠し事があったら承知しないぞ、とその目が語りかけている気がする。これは、何か事実をつかんでると考えた方が良いだろう。 考えろ、考えるんだ、クラウス!まだポンペイウスは健在だぞ。  全ての原因はあの宴会にあるはずだ。必死に、記憶の糸をたどる。俺は、誰にどんな話を振ったっけなぁ。ルーシエに関係のある事、 行きたかった店…そうか!そういえば生き生きと店を手伝うルーシエの給仕姿を、ノウンと一緒に妄想してみようとしたんだ。  よし、思い当たりはあった。この件で間違いはないだろう。多分。でも、ここで宴会の時と同じノリ、ノウンと語り合う調子で所感 を述べたら、鍋にでも詰められてビアガーデンに送り返されてしまうだろう。ルーシエも心は男なんだから、俺と二人だけで居るなら 冗談を受け止めて、笑い飛ばしてくれるに違いない。でも、ここには娘さんも居るんだ。何一つとして、ウカツな事は言えっこない。 俺は思わず生唾を飲み込むと、いよいよ言葉を口にした。 「ああ、僕にだけは教えてくれたにゃあ。ルーシエのお店に行けなくて、残念だったと。フェイヨンDで見せたあの身のこなしなら、 お客をさばくその姿もさぞかし華やかで、見ものだったろうに、とにゃ。」  どうだ、ルーシエ。この気持ちに偽りはないぞ。俺は真っ直ぐ、ルーシエの目を見つめる。ルーシエも一歩も退かず、こちらを 見つめ返している。そりゃあ、そうだ。あの程度の返事で、望むだけの答えを充分に引き出せたとは思っていないだろうし。 しかし、ルーシエはついに折れてくれた。こちらが見てもいない姿を褒められたのが、嬉しかったのかも知れないな。 ふっと笑みを浮かべると、こう言ったのだ。 「そうか、そうか!ワイリーちゃん、あのエロクルセに伝えておいて。『今度、私がどこかのお店を手伝うような機会があったら、お客 として気前の良いところを見せてよね。そうしたら、私がじかに給仕してあげるから』と。あ、そうそう。この娘はレナよ。よろしくね。」 「しかと、うけたまわったにゃ〜。レナちゃん、驚かして悪かったにゃ。これからも、よろしくにゃ!」 ようやく、大きな安堵感が俺を包む。レナは「エ、エロクルセって…?」と、戸惑いながら母と俺の顔を交互に見ている。 しかし、この打ち解けた雰囲気は、もう揺らぐ事はなかった。