低いエンジン音、継続的に訪れる振動。  家から大学まで通学するバスでの移動。距離はそれなりに離れており移動の時間ももったいない と思うのだが、せっかく受かった第一志望、こればっかりは諦めるしかない。  大学の近くにアパートを借りると言う手段もない事はないのだが、家から通えるという事もあっ て、アパート借りるなら自腹切れと親に言われてしまった手前、この生活を享受するしかなかった。  受ける講義は2現目なので通勤ラッシュに捲き込まれずにすんでいるが、しかしそれでもバスの 中の座席は完全に埋まっている。  徐々に減速していくその速度は停留所に止まるためのもので、ややあってバスは僅かに反動を残 し停留所に止まった。  ぷしゅ、と空気の抜けた音が聞こえ、ドアが開く。  降りる乗客に乗る乗客。  大きな停留所と言うわけではなく、その数は少ない。  その中に小さな子供…恐らく2歳にもなっていないだろうその子の手を繋ぎ入ってくる女性。  お腹は大きく一目で妊婦だとわかる、その女性の逆の手には買い込んだらしい買い物袋が提げら れていた。  片手には子供、もう片手には買い物袋。つり革に捕まることもままならなず、その女性は移動す るバスにバランスを崩しつつある。  長椅子に座っていたオレはその様子に立ち上がって…、その瞬間隣に座っていたもう一人の年の 頃はオレとほぼ変わらない男も同時に立ち上がった。 「……」  お互いに気まずい視線を交わして、かといって座り直すわけにもいかずオレ達はその妊婦と子供 に席を譲る。 「ありがとう」  絶妙なタイミングだったためか、その妊婦も顔を綻ばせて礼を言い子供と共に席に座った。 「ほら。お兄ちゃんたちに有り難う言おうね?」 「あいあとーー!」  妊婦のその言葉に、小さな子供は舌も回らない拙い言葉で礼を言う。  そしてバスは進んでいく。  大学まであと3つの停留所。  もう少しで―――――― 「………ぅん?」  目が覚めたら、中世っぽい室内の天井が見えた。  言われるまでもなく、『オレ』がROの世界で使っている自室の天井。  つまりは久しぶりに現実の世界の夢を見た、ということなのだろうか。  目が覚めたとしても、どうも頭の中に靄が掛かったようにすっきりとしない。まるで長い間眠っ ていたようなそんな感覚。 「……うーん」  なんだっけ。なんかやってたような、やってなかったような。寝た最後の記憶が殆どないのは何 故なんだろう。  ぼけっと天井を見ていたオレは、自分の手に何かが触れてるような、というか握っているような その感触に視線を天井からそちらの方に向けた。 「…のごっ!?」  口から出たのは、理解に苦しむ微妙な悲鳴…というのだろうか。  いやいやいやいや、それはどうでも良い。  何で、ここにフィーナがおりますか?  つうか、手を繋いだそんな状況でベッドを枕に何故寝てますか? 「な、ななな、なに?何があった?」  その状況まで一体何があったのか思考をめぐらそうとしたのだが、激しく頭の中は混乱中で、そ の繋いだ手の暖かさと柔かさと、フィーナの寝顔に意識が向いて集中は出来るわけもない。  流石にこのままというわけにも行かず、ベッドの中に入ったまま、ゆっくりとその手を外す。外 気に触れたその手が妙に涼しく感じるのは、惜しんでいるという意味もあるのかもしれない。  オレはゆっくりと身を起こし、寝ているフィーナの肩をゆする。 「なあ、フィーナ。こんなところで寝てるなよー」  声も掛けるが、完全に熟睡しているのかフィーナは何の反応も見せない。  困った。  抱えて、彼女の部屋に連れて行こうかとか思ってもみたが、何の了承も得ずに女の子の部屋に入 って良いものか非常に悩む。事実オレの女兄弟は無断で部屋に入ったら、鉄拳制裁が行なわれる。  しかし、このままで良い訳もない。かといってさっきまで寝てたオレのベッドにいれるわけにも 行かない。  仕方無しにクローゼットの下に仕舞っている予備の毛布を引っ張り出して、寝ているフィーナに 掛ける事にした。  時刻は朝の6時。朝日は既に顔を出し、カーテンを引けばその光が差し込んでくる。  とりあえず水でも飲みに行こうかとオレは部屋を出た。  階下に降りれば、とんとんと規則正しく聞こえる音は恐らくルフェウスが朝食の準備をしている のだろう。  オレはリビングに入るとテーブルの上にあった回覧板のようなものに目が行き、何気なくそれを 手にとって眺めた。 「……………え?」  別にその中身はそれ程驚くようなものは書かれていなかったのだが、だけどその上の、日付の欄 にオレの目は理解できないように数度瞬きを繰り返す。  そこに記されている日付は最後に記憶しているその日付から3週間以上過ぎたものだった。  ちょっとまて、なんだこの空白期間は。これって記憶障害?それともキングクリ○ゾン?  ひっくり返しても振ってみても日付欄が変わることはなく、というかそんな真似して変わる方が 驚きだけど。  いかん、激しく混乱しているなあオレ。 「なあルフェウス」  キッチンにいるであろうルフェウスに向かいながら声を掛ける。事態が飲み込めない。よく言う じゃないか、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥って。 「…っ!?  あいたっ!!」  オレの言葉にルフェウスはびくりと肩を震わせ、その所為だろうどうやら包丁で手を切ったよう だ。 「何やってんだよ、お前らしくない」  近寄って見てみれば、思いっきりざっくりと切ってしまったらしく、その傷は実に痛々しい。  とりあえず、その切ってしまった左手にヒールを使っておく。  しかし、その間もルフェウスは呆然としたその表情をオレに向けていた。 「…おーい?どうしたルフェウス?」  ひらひらとルフェウスの顔前を手で振ってみる。 「………、  リ…ディック…?」 「……なんだよ、まるでお化けでも見たような顔して?  なんかオレについてる?」  変な顔でじっと見られるとなんだかあまり良い気分にはならない。首をかしげながらオレはルフ ェウスを見る。  と、いきなりがばっと抱きすくめられた。 「はっ!!?」 「よかった…!  本当に、本当に良かった!」 「え?な?お???」  ルフェウスに抱きつかれたまま、オレはうろたえる。男に抱きつかれる趣味はないというかルフ ェウスの中身は女だから問題ないのか?というか、意味がわからないんですけど?何が良かったの? 「は、はは。  本当にリディックだ。よく、戻って…」  オレはどう見てもオレでしかないわけだし、戻って、ってそりゃどういう意味だ? 「あ、あのさ、一体何がどうなって、えー?」  問いかけてみれば、ルフェウスははたと気が付いたようにその手を放す。 「…あ、ごめん。驚いたよね。  ……うん、なんでも、無いんだ」 「ちょ、こんなことされてなんでもないって無理ありまくるんだけど」 「良いんだ、うん、もう良いんだ」 「お前が良くてもオレが良くねえ」 「良いんだよ」 「………」  だめだ、これ以上はどう聞いても押し問答にしかならない。 「じゃあさ、一つ聞きたい事があるんだけど、なんか3週間分の記憶飛んでてさ。  なんでかなあと」 「……認知症?」 「ちゃうわっ!!」  失礼なことを平気で言ってのけるルフェウスに全力で否定する。んなわけはない。あるはずが無 い。記憶力にはそれなりに自身があるんだ。 「嘘嘘。いわゆるあれだよ、記憶喪失。  もー大変だったんだよ?お前は何処の赤子かー!ってさ。  ほんと、こんなことって漫画か何かだけかと思っちゃったよ。  いろいろ手を尽くしてあげたのに、記憶戻ったら全部忘れてくれちゃって。  お母さん、悲しいなあ」  誰が母さんか、…いやこいつに限っては否定する必要も無いというか…、 「…って、記憶喪失!?  マジで?」 「うん。マジで。いやああれは本当に驚いた驚いた。まさかの2階から植木鉢直撃だもんね。  こんなべったべたの展開、ほんと君って何処の漫画のキャラかと疑ったよ」 「……2階から植木鉢って…おい…?」  …オレ、良く死ななかったなあ…。 「まあそんなこんなで時間が吹き飛んでしまったのはそういうわけ。  アンダスタン?」 「………アンダスタン……」  そ、そうだったのか。そんな都合の良い展開がこの身に起きていたとは、人生とは数奇なものな のだな…。 「あ、そうそう。  これ、入り直しといて」  そう言って出されたエンブレムはギルド加入要請のそれで、慌てて自身を調べてみればきっちり かっちり無所属状態になっているのに気が付いた。 「いつの間に抜けて?」 「空白の3週間の間にだよ。あ、ついでにこれもいる?」  と言って出されたのは下段装備赤ちゃんのおしゃぶり。 「…っ!!!!???  って、なんだこれ!!?」 「記憶喪失って随分まっさらな状態でね、うん、だから『何処の赤子』というわけで」  ………う、そ……? 「マジスカ……?」 「あっはっはっはっはー」 「なんだーーーっ!?その笑いはーーーっ!!?  嘘だ!嘘だと言ってくれーーーっ!!!!」  オレの涙の絶叫は無駄に晴れやかに笑うルフェウスを素通りして虚しく響くのであった。  ……本当にね、嘘だよね……?  窓から見える空は晴れやかな青空であろうとも、オレは頭からキノコの生えそうなオーラが出て いるのは気のせいと言うことにして置いてください。  そんなどんよりムードのオレにルフェウスは皆を起してくれないかとキッチンの方から頼まれた。  別に断る理由もなく、それでも鬱々と寝室があるであろう二階に上がる。とりあえずはラルから 行ってみようかと部屋の扉をノックする。が…反応は、ない。  そもそもあいつは朝には弱い。すんなり起きるわけは無い。ということでいつも通りに部屋に突 入、ぼふぼふと起きるまで布団を叩いているわけだが……。  なぜだかここで妙な悪戯を思いついてしまった。 「起きろーっ!起きねえとホーリーライトぶっ放すぞー」  もちろん、声掛けだけで起きないのは重々承知だ。意味の無い言質のようなものだと思ってくれ て良い。本気で意味は無い。 「よーっし、行くぞー」  別に殴りのホーリーライトなぞWIZに効くわけは無いし、ダメージソースは所詮1止まりだろ う。ダメージ1と言えば、ちょっと力を入れて殴った程度の威力だし後で笑って済ませれる範囲だ。 多分。 「ホーリーライト!」  ぱんっ! 「ぶっ!?」  ……あ、あれ?なんか思ったよりダメでてる…?…えーと、18だってさ。何故によ?まだオレ INT一桁台だったはずじゃあ…? 「……てんめぇ…」  流石に1発で目が覚めたラルはゆらり、という効果音が似合いそうなその動きで起き上がる。 「いや、すまん。悪気はあったがこうなるとは思わなかったんだ。うん、マジですまん」  朝に弱い人間と言うのは得てして朝は機嫌が悪いものと相場が決まっている。実際ラルもそのパ ターンだったりするのだが、元々目つきのよろしくない人相ゆえにその表情たるは押して知るべし。 「どの面ぶっ下げて目覚めのホーリーライト放つアホがいるか!!」 「ちょっとしたジョークのつもりだったんだ。つうか魔法はやめような。マジで死ぬ」 「てめえが先に使ったんじゃ……、  ……ん…?  ああ、そうか…」  いきり立っていたそのラルはなぜか明後日の方向を見つめ、一つ頷いた。 「なんだよ?」 「そうか、それ以前に戻ったって奴か」 「『戻った』…、ああそうそう、オレ記憶喪失とかそういうのだったみたいだってな。うん、すま ん、迷惑かけたな」 「記憶喪失…?…ああ、そういえばそういう感じか」 「…そういう感じって、何だよ?」  何か話に齟齬があるようなそんな響きに、オレは眉を顰めて尋ねてもラルは何でもねえと言うだ けだった。 「…ま、まあ朝飯だってよ。降りて来いってさ」 「ああ」  オレの言葉にラルは頷いて、出て行けとばかりに手を振る。留まる必要も無いのでそのまま部屋 を出る。  なんだか妙に違和感がある。それに先程のHLの威力に自分のステを引っ張り出してINT値を 確かめてみればそこには最後に見たその数値とは明らかに違うそれを示していた。 「…げ。溜めてたステポイント全部INTに振らさってる……」  最終的にはそこそこ振るつもりではいたのだが、このステポイントはSTRに振ろうと思ってた のに。恐るべし記憶喪失。無意識にステを振るとはなんと言う恐怖。LUKに振るさってなくて本 気で助かった……。しかし…これは痛いなあ…。  …ってことは…、慌ててスキルリストも引っ張り出して確認してみれば、それは無事らしく(ま だ必要スキルを常時取っていたため、スキルポイントの余りが無かったのが助かったのか)なんと か今後に影響するような事はなさそうだ。 「本当に恐ろしい状況だな、記憶喪失というのは」  オレはしみじみと呟いた。  今オレは自分の部屋の前にいる。何故自室の扉を叩いて入らなくてはいけない状況になったかと いえば、ここにフィーナがいるからに他ならない。  ノックしても反応はなし。こそーっと扉をゆっくり開けて中を伺って見れば出て行く頃と全く変 わらないその室内。  まるで泥棒に入るかのように忍び足で部屋にはいるこのオレの姿は不審者に見えなくも無い。  いや、起すのに抜き足差し足はちと違うだろう。  ベッドを枕に体制を変えずに眠っているフィーナの様子にオレは一つため息を吐いた。  心配掛けたんだろうな。それがどうしてあのような状況になったのかは理解できないけれども。 「フィーナ、フィーナ」  再びフィーナの肩をゆすって覚醒を促す。今度は数度肩を揺らしたところで、フィーナは小さく 声を出した。 「……ん、」  ゆっくりと目を開けて、そしていきなりがばっとその身を起こした。  ごっ! 「〜〜〜〜〜…っ」  勢い良く起き上がったフィーナの頭と、それのほぼ真上に居たオレの顎がクリーンヒット。予期 しないダメージに声も出せずにぶつけた箇所を押さえ込むオレとフィーナ。お願いします神様、も うちょっと気の効いた展開と言うのは用意してくれないのでしょうか。 「…え、あ」  頭を抑えながらフィーナはゆっくりと振り返ってオレの姿を見るフィーナの顔はうれし泣きをす るような表情でいた。 「…お、おはよう」  顎を押さえながら間抜けな格好でとりあえずオレは挨拶をする。 「おはよう、ございます!」  フィーナは満面の笑みでオレの方を見て挨拶をした。