●山岳の都市フェイヨン   マリーさんから渡されたメモには日本語とはかけ離れ、英語とも違う、元の世界では見たこともない文字が書かれていた。   ここはROの世界。   ミッドガルド大陸に存在する、ルーンミッドガッツ王国における街の一つ。   さしずめ、この世界の標準語に当たるものなのだろうか。   現実世界から迷い込んで日の浅い僕には到底読むことなどできないはずだったが、何故かすんなりと読むことができた。   「フェイヨン特製キムチ……?」   てっきり医療品関係が書かれているものだと思ったが違ったようだ。   僕がフェイヨンに到着した直後、臨時医療所に収容された患者の殆どが快方に向かっていると聞き、   鎮魂祭当日では最低限の人員だけが残っていたにも関わらず、慌しさは感じられなかった。   それらのことを通して考えると、現在医療品等の不足はなく、余裕があるということなのだろう。   それに発酵食品であるキムチは乳酸菌による健康への効果が期待でき、ビタミンも豊富、唐辛子のカプサイシンによる   ダイエット効果もあり、他の塩漬け食品に比べて低塩分で、比較的ヘルシーな食品であると聞いたことがある。   食事面でも健康に気を遣って選んでいるということなのか。プロフェッサーは伊達じゃないんだな。   そう一人で感心しているとメモの裏側にも何か書かれていることに気付く。   “ノーラちゃんへ。    色んな種類があるけど、八百屋のおじさんに『いつものキムチ下さい』と言えば大丈夫だから心配しないで。    ノーラちゃん可愛いから何かサービスしてもらえるかも? そうなったら嬉しいな。    私、応援してるからね。それじゃ、お使い頑張って! ローズマリーより。”   前言撤回。   あの人はただキムチパーティーをしたいだけだ。   罰と称して女性剣士の格好をさせたのもこの状況を楽しむためなんだろう。   そうだ、そうに違いない。   と、ぼやいていても始まらない。   今僕にできることは決まっている。   その為にはなるべく早く買い物を済ませてしまうべきだ。   そよぐ風に吹かれて、ウィッグの髪と動きにくいロングスカートを揺らされながら、   慣れなくともゆっくりとした足取りでフェイヨンの市場街へと向かった。   南東にある海外貿易の大部分を担う港町アルベルタから送られてきたものなのか、   数多くの商品が立ち並び、様々な謳い文句が飛び交う市場街は、現実世界の商店街を髣髴とさせる様な活気で満ちている。   なかでもバードが弾き語りをし、黒猫の着ぐるみを着た大男の屋台がちょっとした話題となっているようだった。   そこまで好評を博しているのなら一目見てみたかった気もするが、商品の殆どが売れてしまうや否や、   大男と屋台は何処ともなく姿を消してしまったらしい。   少し残念だが見られないものは仕方がない。   それよりもメモに記された八百屋を探そうとするが、心なしか注がれる視線と話し声が集中力をそぐ。   「なあ、見ろよ。あの剣士の女の子。」   「ああ、さっきの二人もいいけど、あの子もなかなか……。」   「やっべ、マジやっべ。これって一目惚れ? マジヤバくね?」   「うはwwwwwおkwwwwww」   「あのお姉ちゃん可愛いー。」   「いいなぁ、どうしてあんなに綺麗なんだろう。」   「何よ、あんな子ぐらい! ま、まぁ、私の次に美しいことは認めてあげるわ。」   OK、落ち着こう。   クールダウンだ。KOOLになれ。   素数を数える余裕はなくとも、冷静にはなれるはず。   これは僕じゃなくて別の人に向けられたものだ。   僕を除いても周りに剣士の女性くらいは―――いないのか。   こういった場所に冒険者が立ち寄ることは稀なのだろうか。   どれだけ辺りを見渡してみても他に女性剣士の姿はなく、   先程から向けられる眼差しと声が自分に対するものだと自覚させられると、   恥ずかしさと同時にどうあっても男に見られない情けなさで顔が赤くなる。   いくら覚悟したこととはいえ、やはり抑えられないものは抑えられないらしい。   上気した顔を両手で押さえかけたとき、視界の端に指定された八百屋を見つけ覚束無い足取りで近づく。   「あ、あの、すみません。」   「へい、らっしゃい! おや、これまた可愛らしいお客さんが来てくれたもんだ。」   出迎えてくれた八百屋の店主にすら同じようなことを言われ、更に顔が熱を帯び、思わず口籠るが何とか声を絞り出す。   「ええと、その、臨時医療所のローズマリー所長からの使いの者で、あの、いつものキムチをお願いしたいんですが。」   「ああ、お嬢ちゃんもマリー嬢ちゃんとこの買出しかい。いつものキムチ、と。ちょっと待ってな。」   店主の口振りからして、ルクスさんとフリージアさんもここに来たようだ。   そういえば、二人と会ってもお互い絶対に気付かないってマリーさんは言ってたけど、どういう意味だったんだろう。   現状から察するに僕の正体が悟られないということは百歩譲って認めるとしても、それだけであんな言い方をするだろうか。   「へい、お待ちどう! ちょいと籠を貸してもらえるかい?」   言われたとおりにバスケットを渡すと、小さな壺に小分けされたキムチを敷き詰めていく。   今考えても仕方がないことか。どうせ戻ってみれば分かることだろうし。   それにしてもバスケットにキムチ入りの壺という組み合わせはどうなんだろう。   あまり気にしないほうがいいのだろうか。   「結構な量になっちまったが、平気かい?」   「大丈夫です、お気遣いなく。」   キムチの壺で埋められたバスケットはそれなりに重いけど、ここからの距離なら持ち運ぶのに問題はなさそうだ。   「マリー嬢ちゃんには世話かけてっし、可愛いお嬢ちゃんにサービスするつもりでやってたら結構重くなっちまってな。    お嬢ちゃんの運ぶ手間を考えねぇで、ホントにすまねぇ。」   頭を掻く店主の一言にまた顔が紅潮していくが、ただ言われるだけで終わる僕じゃない。   「いえ、気にしないで下さい。それはそうと、お世辞が上手いんですね。」   今の格好を幾ら褒められても、恥ずかしいだけで嬉しくない僕にはうってつけの言葉だ。   これ以外の言葉が出てこないともいうが、それは置いておこう。   「ハハハハ! こりゃあいい、気に入った! お嬢ちゃんにはまた今度、うんとサービスするからよ!」   「そのときはまたよろしくお願いします。」   店主には悪いけど、また今度はないと思う。思いたい。思わせて欲しい。   「それでは、僕はこれで失礼します。」   「毎度あり。帰りには気をつけてな!」   とにかく、これで買い物は終わった。後はここから戻るだけだ。   僕は店主に一礼した後、そそくさと立ち去った。   市場街から帰路に着くまで色々な考えが巡る。   キムチを多めにサービスしてもらえたからマリーさんは喜ぶだろうな。   僕の声を聞いていたにもかかわらず、結局店主は女性だと信じて疑わなかったようだ。   クラウス、ルクスさん、フリージアさんの三人はどんな罰を受けたんだろうか。   そんな思考が浮かぶ中、一つの不安が頭をよぎる。   僕のペナルティは今日一日だけで終わるのだろうか。   あのマリーさんのことだ。   買い物だけでは飽き足らず、きっと色んな要求をしてくるだろう。   もしかしたら、今日一日どころではなく二日、三日と続くかもしれない。   でもフェイヨンに来た翌日、手伝えることは何でもすると言ったのは確かだし、今でもその気持ちは変わらない。   それにこうなったのは僕の責任でもあるわけだし……。   行き場のない思いを溜息と共に吐き出したとき、いつの間に着いたのか、医療所の扉が目の前にあった。   その脇には引き手のいない屋台が置かれている。ここに用があってきたのだろうか。   屋台のことはさして気にも留めずに扉を開け、壁に立て掛けられた古時計を見る。   予想以上に時間を費やしてしまったのか、昼食の時刻に差し掛かろうとしていた。   マリーさんへの報告より先に、頼まれたキムチを食堂に預ける為、   相変わらず送られる好奇の視線と声に顔を伏せながら、僕はひたすら廊下を歩いて食堂を目指した。