窓を開ければざざん、ざざんと波の音が聞こえる。  その波の音と海鳥の鳴く声を背景に活気に満ちた人々の声が響き渡る。  貿易港のある町、アルベルタ。  そこに私はいた。  他国との線を繋ぐアルベルタの町は多くの人を収容する旅館が立ち並び、そして長期滞在する者 のための借家も多く存在する。私もその一部屋を借りて、ここで生活していた。  窓から入る声や行き交う人たちはその殆どが冒険者――プレイヤー――ではない。『この町で生 活している人達』だ。  プレイヤーはやはりルーンミッドガッツの首都プロンテラに集まる為、このマップ上では端にあ るこの町を拠点にしている人は少ないらしいと私は聞いていた。  夕刻の時間ともなれば市場から帰る人たちでごっちゃになる通りを見つめながら、私は小さく息 を吐く。  あれからどれくらい日にちは経ったのか。  数える必要も無くなって、ただただ無意味に時を過ごしている。  果たすべき事は全部やってつもりだった。  後は、消えるのを待つだけだった。  でもその時はまだやってこない。  日は沈み、また昇って、そして私はまた『ここ』で目を覚ます。  繰り返す日常、終わらない終焉――ラグナロク――。  あの時、アユタヤの地で皆を現実の世界に戻してから私はプロンテラに戻った。  別に何があるというわけじゃない、ただ蝶の羽で戻ったらプロンテラだった、それだけ。  プロンテラの町は今までとなんら変わることが無い。無いはずなのに、私には酷く色褪せて見え た。  そして今まで気がつかなかったのだけど、無言で過ぎるプレイヤーや露店商人たちが……、…… とても怖かった。  まるで人形のように見えるそれ。時折浮かべる表情は作られたような不自然な物。今まで気が付 かなかったのは、私の傍にいつもいてくれた人達のお陰。  今までの状況の方がおかしかったのだ。これが本来の世界なんだ。そう思うと自然と足は震えて いた。  恐ろしくなって慌ててプロンテラから逃げ出して、誰もいない平原にたどり着いて。  私は、自分の手でこの世界から逃げ出そうと試みた。  やり方はとても簡単だ。  自分で自分を殺せば良い。  そうすれば私の精神は砕けて消える。  それで全てが終わる。  今まで沢山のモンスターを屠ってきたこの短剣で、首なり心臓なり突き刺せばそれで終わるのだ。  そう思って刃を首筋にあてがったその瞬間、脳裏にある記憶の映像が浮かび上がる。  まるで母親の様に護ってくれていた赤い髪の青年――と言うには語弊があるのだけど――の、倒 れたあの記憶。  哀しげに微笑んで、そして躊躇いも無く引かれた銀色の刃。  迸る赤。  一体何が起こったのか理解する前に私達は動いて、何とか崩壊は留めたのだけど。  この世界での『自殺』を目の当たりにして、それがどれほど恐ろしいか気がついて、私は短剣を 取りこぼしていた。  ――一度死んだこの身なのに、この世界で何度も死んだことがあるというのに、死ぬのが、恐ろ しかった。  自分の手で終わらせることは、私には……出来なかった。  やっぱり自分は弱いんだと、ため息を吐き自然に足は町に向かった時、プロンテラの南門を溜ま り場にしているのだろう、一組のパーティが目に映った。プロンテラから飛び出したときは気がつ かなかったけど、冷静になってあたりを見ることが出来たから気がついたのだと思う。  その中の一人を見て、私は思わず足を止めてしまった。  あの人に良く似た風貌のハイプリースト。作られた表情で談笑しているその姿を見て私はその場 に立ち尽くしてしまっていた。  別人だと知っている。この私が彼を見間違うはずなど無い。わかっているのにその姿に足は自然 と震えていた。  彼も、そして私の知る人たちも皆、皆この世界にはいないのだ。  もしも町ですれ違っても、それは今目の前で広がっているこの無機質な人形のような人たちにな ってしまっているのだ。  そして、彼らは私の事を憶えていない。  ううん、憶えていないんじゃなくて、私が忘れさせたんだ。  だって、皆はとても優しいから、ここに残っている私の事を心配してしまうだろうから。  この世界に心残りなんて無い方が良いから。  そう思ってやったことだから。  …だけど、私が彼らを見てしまったら、見つけてしまったら……。  私は……泣き叫んでしまう。平常心でいるなんて事…出来るわけなんか無い……。  気がつく左手の指輪。ギルドのエンブレム。パーティ要請のバッジ。  彼らがこの世界にプレイヤーとして戻ってくる可能性は非常に高い。  …消さなければいけない。早く、私と彼らを繋ぐものを全部、全部消さなければいけない。  無機質な皆と会いたくなんか無い…!    全てを消して、そして私はこの地に来た。  にぎやかな町。静かな町。それがアルベルタ。  週に2回、その時だけこの町は『冒険者』が集う。それ以外はこの町に冒険者は殆どいない。  私が皆とこの世界にいた時も、そういえばアルベルタにはあまり長くいた事は無かった。  ルーンミッドガッツの南西端の町、他の国に行く時にただ通り過ぎるだけだったから。  だけど、私がここに落ち着いたのは、ここには『町人』が多くいた為だった。  極自然な表情を浮かべて、その日一日を過ごす町の人達は、今の私にとってとても安らぐものだ った。  『冒険者』がいないこと。『町人』がいること。  それが、死ぬことを選べない私にとって生きていくために必要なものだった。 「…そろそろ、夕ご飯食べなくちゃね」  黙っていてもお腹はすくもので、かといって自分で料理も出来ないから外食ばかりになってしま うのは仕方の無いことだと思う。  こんなことになるのなら、ステータス、DEX振っておけばよかったかなって思ったけど、オーラ を迎えた私にこれ以上ステータスを振る余地なんか残ってない。今まで不自由の無かったA>S>>Iの CD殴りソウルリンカーは一般生活を営むには不自由の塊だ。…あの生活は本当に恵まれていたと今 でもよく思う。  もう一度ため息を吐きながら、開いた窓を閉め財布を手に外に出ようとした、その時だった。  私は、ありえない、その声を聞いた。 『すみません、聞きたい事があるのですが』  ………………………え?  今の、って…、今の声って………。  聞き間違えるものか。忘れるものか。ほんの一声でも、それは間違いなくあの…。  え?でも、なんで?なんで、私にWISなんて出来るの!?  ギルドも、パーティも…婚姻関係さえも消したはずなのに。  彼が私の名前を覚えているはずが無いのに。  そして、余りに他人行儀な問いかけは、記憶の無い事実を告げるもの。  頭が混乱したまま私は慌てて身分証を取り出した。それを震える手で時折操作を間違えながら私 は全ての耳打ちの拒否を実行した。 「……ど、どうして…」  …私の好きな人。会いたい。  …私を知らない、『プレイヤー』のあの人。会いたくない。  声を聞かなければ、抑えれたのに。今まで我慢できたのに。  酷いよ、思い出しちゃったじゃない。  辛いよ、貴方のこと好きで好きでどうしようも無いのに、会うわけにはいかないのに。  ……胸が…苦しいよ……。  私はその場に泣き崩れていた。  落ち着け。  彼は私を知らない。  今WISの拒否を実行したから、彼から私に耳打ちが届くことは無い。  そして彼は私を知らないから、私を探すことは難しいはず。  職業も容姿も知らない、名前だけの人を探すことがどれだけ大変かわかっているから。  ……だけど、私は知らなかった。  リログ…つまり寝て起きたその時に、WISの拒否が解除されている事実に。  だから、それからしばらくWISが無いことに僅かに安心してしまっていた。  WISの拒否はずっと続いているのだと思い込んでいた。  拒否し続けているのだから、きっと彼は諦めるだろう。知らない人に、ましてや拒絶されている 人に何度も話しかけるような人じゃないのは知っている。  だから、それは不意打ちだったのかもしれない。  今日も一日が終わり、眠りにつこうとしたその時再び彼の声が私に響いた時、私は何が起きたの か理解すら出来ていなかった。 『いきなりで悪いけど切らないで聞いてくれ、君はまだ死んでなんかいない』  ………なんで声が届くのか、と考えるよりも、聞こえたその言葉に私の頭は真っ白になる。  貴方は、一体、何を、言っているの?  なんで、私の事を、知っているの? 『全部思い出して、君の事を調べたんだ。君はまだ生きている』 「………思い、出した…?」  呟いた言葉はそのWISに乗った。 『良かった、返してくれて。直接声を聞けないのが辛いけど、君と話すことが出来るのが嬉しい』  いいえ、いいえ。貴方の声はちゃんと届いてるよ。あの時と変わらないその声で。  私の事を思い出してくれた、その嬉しさ半分と、何故思い出してしまったのと、その哀しさ半分 の声で私は呟く。 「……生きてるって…どう言う…」 『言っただろう、思い出したって。  君とあった日、君の住んでいたところ、思い出して調べたんだ。  病院で眠っている君にもあった。  この世界にいる君は知らないかもしれないけど……、間違いなく君だった』 「……なんで、なんでそこまで…」 『非難してくれても構わないよ、まるでストーカーみたいなものだし。  …だけど、好きな子を守れない男に成り下がる気なんか無いから』  その声はとても優しく響いていた。  知っている、その声に感情などつけれない事くらい。だけど聞こえるその声は労わるようにとて も、とても優しく聞こえていた。  ぽたり、と雫が落ちた。 『戻れる。絶対に帰れる。オレもこっちの世界から探すから。  諦めないで。  大丈夫、今までと状況が違うんだ。  そっちの世界と、こっちの世界。両方から探せば絶対に何処か糸口は出てくるはずだから。  だから、だから諦めないで』  ぽたぽたと落ちる涙を拭う事すらせず、私はただただその声を聞きながら虚空を見つめていた。 『君に逢いたい。  文字越しじゃない、君の声を聞きたい。  君に、触れたい』 「……わ、私も、私も会いたいです!  貴方に会いたいです…っ!」  弾けるように口から出た声は暗い室内に響く。零れる涙は止まりそうも無かった……。