良くない。良くないぞ。 表情を強張らせ、前へ向き直ると改めて目的地へ歩み始める。心なしか、その歩調は速い。 目指す先は、恐らくあの街路の奥にある。そこへたどり着くには、あの窓がある家のすぐ側を通らなくちゃいけなかった。 そう。逃げるように奥へと消えていった、あの女性の家である。 ところで何が良くないかといえば、彼女のリアクションだ。目が合い、驚かれ、逃げられた。となれば、何かあの人との間で 良からぬことがあったとしか思えない。何があったのか、知るよしもないが。思えば、この身は明日の命も知れぬ軍人稼業。 クラウスは生き急ぐあまり、女性を悲しませるようなことをしでかしたのかも知れない。 そんな思案に沈みつつ通りを歩いていると、突然ドアの開く音に驚かされる。勢いよく視界に飛び込んで来たのは誰あろう。 あの窓辺にいたお嬢さんじゃないか!向こうも、よほど急いで階下に降りて来たのだろう。勢いのあまり、長い髪がふわりとなびく。 それだけでも、心臓が口から飛び出すところだった。しかし神様は、俺を驚かせる時は矢継ぎ早にと決めているらしい。 俺の姿を認めて居住まいを正すと、彼女は花弁のような唇から言葉を紡ぎ、こう言ったんだ。 「お帰りなさい、クラウス様。」 え…今、何と?お嬢さんの瞳は、真っ直ぐに俺を捉えている。その場の時間が凍りついたような気がした。 途端に、今まで体験しなかった程の勢いで頭の中を思案が駆け巡る。 今、目の前で何が起きているんだろう。このお嬢さんは、いったい誰なんだ。分らない。分るはずもない。ただ、だぜだろう。 それで済ませては、いけないような気がした。ならば、ここで考えるのを止めてはいけない。あきらめずに、答えを出すんだ。 考えろ、考えろ。そもそも考えて分ることだとして、今までに何かヒントはなかったんだろうか? 改めて、お嬢さんの瞳に視線を戻す。深い。思わず吸い込まれてしまいそうなほど、深い青だ。鉄の自制心を感じさせる、凛とした顔。 その表情と、落ち着いた佇まいは、何を語っている?どんな気持ちを、秘めているんだろう。ふと、彼女の声が頭の中に甦る。 気のせいかもしれないが、かすかに震えていたような…。そう、まるで強い感情を、必死に押さえつけているようだった。 それは怒りか?それとも悲しみか?いいや、違う。お嬢さんの目は、暗い情動の影など宿していなかった。顔を見れば書いてある。 彼女が露わにするまいと懸命になっている気持ち…それは喜びだった。 待て。もう一度、思い出せ。お嬢さんは今、何と言った。「お帰りなさい、クラウス様。」だったよな?つまり、探し求めていた我が家は ここなのか。そして、こんな場所でしがないクルセを、嬉しそうに「様」付けで呼ぶような人が居るとすれば…。うん、間違いない。 覚悟は決まった。俺はできる限り温かそうな笑顔を作り、表現を慎重に選びつつ、こう返事してみせた。 「ただいま、ティナ。心配をかけたね。」 その瞬間、目の前でたくさんの花がいっぺんに開いたように見えた。 ほんの一瞬だけ、彼女が満面の笑顔を見せたんだ。 心の中で、一気に重荷が降りていく。当てずっぽうだらけの危ない橋を、どうにか渡り切れたらしい。今かけるべき、一番大事な 一言を間違えずに言えたんだ。 「さあ、こちらへ。」 足取りも軽やかに、進路を譲るティナ。促されるままに扉をくぐり、俺は「帰宅」を果たしたのだった。 --------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 日頃からこうなのか、それとも特別ご機嫌だからなのか、ティナはとてもテキパキとしている。 部屋に通され、防具を一通り脱ぎ終える頃には鍛冶屋の徒弟が戸口に訪れていて、修理に出すべき武具を待ち構えていた。 洋服棚を開けてみれば、そこにはクラウスの普段着があった。剣士の制服に似ていて、飾り気よりも実用性を重視した動きやすい物だ。 そして着替えが済む頃には、階下でシチューが良い香りを立てていた。階段を下りて食卓につく。台所を見れば、大きな鍋が弱い炭火に 掛っている。それを見て、俺は何とも申し訳ない気分になった。ティナは恐らく、クラウスやヨルクがいつ帰ってきてもすぐ温かい食事が 出せるように、こんな献立を選んでいたんだろう。そう考えると、心まで温かくなってくる。今なら、ティナがどんな我がままを言っても 聞ける気がする。彼女はおくびにも出さないが、今日までかなり寂しい思いをさせたかも知れない。ならば、せめてこんな和やかな時間 だけでも、明るく楽しまないとな。そんな思いを胸に、ティナに語りかけてみる。 「今まで家を空けて、すまなかった。寂しかっただろう?」 「あら?クラウス様。急にどうしたんですか?私なら、大丈夫ですよ。留守番は慣れっこですから。」 いや、今回ばかりは平気だったとも思えない。都にいながら、俺はここに帰らなかったんだから。 どうにも、そんな憂いを顔から消しきれなかったんだろう。目ざとくそれを見て取ったのか、ティナは続けた。 「…それに、私が悪かったんです。クラウス様こそ、ずいぶん心配だったでしょうに。」 うーん。やはり、この二人の間には何かあったんだ。ちょっとだけ、空気が重くなる。そんな流れを変えようとしたんだろう。 ティナは、イタズラっぽそうな笑みを浮かべると問いかけてきた。 「それにしても、家にも帰らずにどこへ行ってらしたんです?済まないと思ってらっしゃるなら、聞かせ下さいな。」 「ん?ああ…。」 こうして俺は、全てを語った。ルーシエや娘のレナ、ローウィン、リエッタ、如月、エルミド、グレン…それにルクス&フリージア、 ラグナ&ミーティアのことを。みんなと過ごした楽しい時間や、しでかした失敗、それに償いのことを。 ティナは熱心に耳を傾け、目を丸くしたかと思えば、楽しげに笑っていた。見れば見るほど落ち着きを感じさせる彼女が、今だけは 実に豊かに感情を表している。良かった。心から話を楽しんでもらえたみたいだ。 「そうそう、ノウンにはすぐ会えるかも知れないぞ。この住所を、教えておいたんだ。来てくれるかもな。」 「まあ、本当ですか?楽しみですわ。」 「しばらく、腰を据えてくれるかも知れない。泊ってもらえるような空き部屋はあるか?」 「屋根裏を、少し片づけておきます。快適な寝室になるでしょう。」 「よろしく頼む。重い物を動かす時は、いつでも遠慮なく呼んでくれ。」 「ありがとうございます。でも、私ひとりで大丈夫だと思いますよ。それよりも、お疲れでしょう。そろそろお風呂が沸きますわ。どうぞ、お先に。」 キビキビと動き回るティナを見ていると、それだけで疲れなど吹き飛んでしまう。それでも「自宅の風呂」には、抗いがたい魅力があった。ここは 素直に、お言葉に甘えさせてもらうとしよう。うなずいて席を立つ。ティナは、上品にコトっと靴音を立てて膝を曲げると、家事に戻って行った。