天井から落ちる滴の音を聞きながら、立ち上る湯気をぼんやりと見上げる。俺は今、我が家の風呂に浸かっていた。 いまだに自宅にいる気がしないのに、宿の風呂よりも心が安らぐのはなぜだろう。こうしていると、また色々な思いが頭を巡りだす。 まず気にかかるのは、ティナの俺に対するうやうやしさだ。今さらのように、ヨルクの人事書類の内容を思い出す。クラウスに向ける 「忠誠心」か。兄と同じく、ティナも当然のように、クラウスにかしずいて来たのかな?しかしだ。クラウスにとっては当たり前だった のかも知れないが、俺はこんな扱われ方に全く慣れてない。彼女の前で自然に振舞えているのか、自信がないくらいだ。ここで、はたと 我に返る。いけない。気分がまた、沈みかけてるぞ。こんな時こそ、気持ちを入れ替えなくちゃ。息を思い切り吸い込み、一気に吐き出す と別の方向からこの問題を考えてみる。うん、そうだな。単に慣れの問題だったら、時間が過ぎるだけで解決するかも知れない。何の根拠 もなく、そう楽観してみる。すると、どうだろう。何一つ悩みが消えていない状況に、少しも変わりはないはずなのに、心が軽くなって くるじゃないか。我ながら、調子がいいものだ。こうして強引に心を励まし、落ち着きを取り戻すと色々な思い出が頭に甦って来た。 そうか、もう一年にもなるんだな…。フェイヨンで必死に剣を振っていたのを、まるで昨日のことみたいに思い出す。 あの一件が落着した後、日帰りでずいぶんと色々な場所へ行ったものだ。ルクスやフリージアが向かったというアインブロック、そして ルーシエ親子の行き先と聞いたゲフェン。そうそう、やはり独りで調べ事を進めるのに限界を感じ始めたのは、ゲフェンに行く直前だった かな。 ある朝、俺は大聖堂で同業のケイナさんと立ち話をした。こちらがゲフェンに行くつもりだと言うと、彼女は目を丸くしてこう言うじゃないか。 「どうしても行くのね。ならば、ひとつ忠告してあげる。あの町のクルセイダー隊には、まだ貴方を赦していない人が多いわ。貴方ったら ただでさえ、あの地のオーク族と深い因縁があるのにね。悪いことは言わないから、素性を隠してお行きなさい。」 表情に出すわけにはいかなかったが、頭の中が疑問符で一杯になってしまった。敵に恨まれるならまだしも、味方にさえ気を許せない土地 なのか。あの時、心の中でついた溜息を遠慮なく吐き出す。その疑問ひとつ取っても、まだ解けてはいないんだ。 結局、夜遅くに都へ帰るまでスマイルマスクを取ることはおろか、本当の名前さえ名乗れなかったんだよなあ。それでも、面白い体験が できたと思ってる。宿の人に聞けばルーシエらしいプリさんが町に来ているのは確かだったんだけど、どこにも見当たらなかったんだよな。 それでダンジョンの中を捜してみようとして、地元の警備隊からPTを組んでくれる人を募ったんだった。ただでさえ魔法の心得がないと 馬鹿にされそうな土地柄で、よく名前も名乗らない俺とすんなり組んでくれたものだ。思えば、あの町には外から大勢の騎士やクルセが 来ていた。フェイヨンを救援した結果、ゲフェンは手薄になったと聞くからその穴埋めって所だろう。片や「魔法都市」の住民。片や 剣に命を託す剣士の集団。流儀の違う者同士、あまり仲が良さそうに見えなかったし。そんな中、自分達に頭を深々と下げるクルセが やって来たのだ。彼らも自尊心をくすぐられたのかも知れない。何せこちらが名乗れないものだから、向こうも名乗らない。おまけにこちら はスマイルマスク、向こうはゲフェン兵にお馴染みの仮面のような兜。互いの顔も見えやしない。それなのに、ひとたび組んでしまえば心が 通じ合うのは、不思議な感覚だった。でも、ダメもとでやってみたことは決して無駄じゃなかった。ゲフェニアで、レナに会えたんだから。 むう、湯に浸かりすぎたかな。だんだん、のぼせて来た。湯船を出てシャワーを浴びていると、今度はモロクの方へ行った時の思い出が かすかに頭をよぎる。旅の途中でラグナとミーティアを見たと思ったんだが、確かめる前に見失ってしまったんだっけ。案外、その晩 泊った宿で一緒だったかも知れないな。そこで出された酒が、ヤケに強かったのは覚えてる。でもそのせいか、他のことはよく思い出せない。 こうして思い出に浸っていたら、抜いておいた栓からお湯の抜け切る最後の音が、俺を現実に引き戻した。そろそろ、上がるか。 湯船を洗って脱衣所に戻り、体を拭くと新しい服を身につける。ああ、生き返った気分だ! そのまま屋根裏部屋へ上がってみると、ティナは部屋の掃除と整頓を終えてベッドを組み立てている所だった。おもむろにその作業を 手伝ってみると、驚いた顔でこちらを見て、にっこりとほほ笑む。 「どうです、だいぶ片付いたでしょう?」 そう言われて周りを見渡して見ると、この部屋が思ったよりも広いことに気がつく。採光用の天窓が東西の両側にあり、壁際には暖炉まで 備わっている。その存在は、ここが単なる収納スペースに留まらず、居住のための空間として利用されていたことを物語っていた。 部屋の奥には、片づけたと思われる長持や古そうな武器、防具が整然と並んでいる。その数は、それほど多くない。今やこの部屋は、一人 どころか二人の客でも迎えられそうなくらい整っていた。俺は嬉しくなって、ティナにうなずき返す。 その時だ。急に、家の外から騒ぎ声が聞こえて来たじゃないか。何が起きたんだろう。行ってみなければ。すぐに着られる防具はないか。 辺りを見回しているとティナが、小さな金属片をいくつも貼り合わせたような、簡素な鎧を抱えて立っていた。こちらの心中など言わず とも察していたのだろう。そのまま、着付けまで手伝ってくれた。それが済んだかと思えば、即座に剣を手渡される。少しも無駄のない、 慣れた動きだ。二人もの武辺者と一緒に暮らしているうちに、自然と身についてしまったのだろう。 「お気を付けて!」 背中にティナの声を浴びながら、表に飛び出す。目に入ったのは、人だかりだった。それをかき分けて、どうにか前に出てみた所で俺は 凍りつく。広い血だまりの中に、剣士が倒れているじゃないか!うつ伏せに倒れ、かすかに見える横顔は蒼白で生気がない。ん?でも 何かがおかしい。この違和感は何だろう…。 「ヒールだ!早くヒールを!」 「急げ!リザが間に合うかも知れん!」 「誰が、こんな惨いことを…!」 「警備隊に知らせろ!」 怒号が飛び交う。ようやく町の人を押しのけて来た、見知らぬアコさんがやっとのことでヒールをかけてみた。その白い光の柱が消える様を、 誰もが固唾を飲んで見守っている。でも剣士は目覚めない。周囲に広がる、失望のどよめき。手遅れだったのか?改めて周りを見てみる と、ようやくプロンテラの警備隊が到着した所だった。その時、俺はやっと自分の感じて来た違和感の原因に気がついた。それと同時に、 転げるように剣士の側に駆け寄る。おかしいわけだ。あれほどの血だまりを作るほど重傷を負っているはずなのに、いつまで経ってもその 血だまりが、それ以上広がらなかったんだから。何が起きたのか見当もつかないし、納得のいく説明もできない。でも、剣士の傷はもう 塞がっているんじゃないか?そこまで考えると、もうじっとしてなどいられなかった。急いで剣士の首筋に、指を当ててみる。周囲の人は 俺の行動を理解できず、ただ呆気に取られていた。そんな中、俺は顔を上げるとあらん限りの声で叫んだ。一気に緊張が緩んだせいで、どんな 表情をしていたのか自分でも想像がつかない。 「この剣士は、まだ生きてるぞ!」 彼の首筋に当てた指は、確かに脈を感じていたんだ。 警備兵が二人、慌ただしく上着を脱ぐ。それを二本の槍に通して、即席の担架を作ってくれたんだ。さっそく剣士をそれに乗せようとして、 体を持ち上げる。その時ようやく、剣士の顔を確かめることができた。 「おい、どうした!早く担ぎ上げろ。」 警備兵に急かされる。しかし、俺はその場に凍り付き、動けなくなっていた。ぐったりと気を失っているその剣士は、ノウンじゃないか! いや、固まってる場合じゃない。我に返ると、ノウンに呼び掛ける。 「おい、ノウン!しっかりしろ!」 「どうした、知り合いなのか?おい、そんなに揺さぶるんじゃない!とりあえず、救護所に運ぶぞ。」 いら立つ警備兵。しかし、ここは譲れない。救護所と言ったって、城の中じゃないか。ここからはやや、距離がある。 「兵隊さん、ここは一つ、俺の家に運ばせてくれ。すぐそこなんだ。」 「し、しかし…。」 その時、担架に乗せられていたノウンを見知らぬプリさんが調べていた。彼は言う。 「うーん、奇妙ですねぇ。服は鋭利な刃物で切られている。でも外傷が見当たりません。それに、この剣士さんは気を失っているだけみたい ですよ。」 「馬鹿な。この血だまりを作ったのは、この人だろう?」 「それは私も説明できないのですが、気を失っているだけなら大事ないと思いますよ。城の救護所では、もっと傷の重い人がベッドの空くのを 待ってるんじゃないですか?」 「早く友を手当てしたいんだ。頼む!」 「ぬぬ…。よし、分かった!では貴方にお任せしよう。剣士さんが目を覚ましたら、知らせてくれ。立件するかどうか、本人から話を聞かなく ちゃならんからな。」 警備兵は、ついに折れてくれた。全く、融通の利く人で良かったよ。ノウンをついに、屋根裏部屋のベッドに寝かせられた時には、安心の あまりそのまま崩れ落ちる所だった。傷の治りが異様に早いだなんて、本人はあまり他人に知られたくなんかないだろうしな。 さっそくティナが気付け用のリキュールと水差しを持って、手当を始めている。部屋に広がる、薬草酒の強烈な香り。こっちまで目が回りそうに なるじゃないか。いったいどんなシロモノを使ってるんだ?ようやく薬草酒の希釈が済んでフタが閉められた時、思わずビンのラベルを読まずには いられなかった。 表側に『サン・メシャメール』、裏に『用量厳守!』とある。度数は…おいおい、七割以上アルコールじゃないか!こりゃ、薄めずに飲んだら ヴァルハラ行きは間違いないな。ノウンの目覚めが、安らかならんことを祈ろう。