●???   「ここ、何なんだ?」   辺り一面、真っ暗で何も見えず、何も聞こえない。   それどころか、今さっき自分が声に出して喋ったのか、心の中で思っただけなのか、   この場に足をつけて立っているのかどうかすら、感覚がまるでなくて分からない。   「僕はどうしてここにいるんだろう? 何があったんだっけ……」   取り敢えず、状況を整理しようと思い、直前にあったことを思い出してみる。   確か、クラウスが僕の分まで余分に払った宿代を、置き手紙に書いてあった場所まで届けようとした途中、   ゲームマスター――政府の特務と同じ格好をした女性に会って……   「返り討ちにされて、気絶したのか……」   意識を失う直前のことまでは分かったのはいいが、ここが根本的にどこで、何を示しているのかが分からない。   恐らく、世間の言う「死後の世界」というわけではなさそうだ。   確かに僕は女性に切り刻まれた。   しかし、斬られた直後は激痛の余り分からなかったが、   意識を失う直前や今になって考えてみると、多量に出血する箇所以外は急所を見事に外されており、   自身に備わっている異常な再生能力のお陰で、即死のダメージを負わない限りは死にようがない。   その上、僕自身が「死後の世界」というものの存在を信じていない、というのがある。   となると、ここは僕の深い夢の中だと仮定するのがよさそうだ。   「だとしてもこう何もない、ただ真っ暗な夢って何か意味があるのかな?」   そう思っていると、遠くで何かが光って見えたような気がした。   「何だろう?」   遠くに見えた光が徐々に近くなり、目の前で立方体のようなものに変わったかと思うと、更に一つのモニターへと形を変える。   そのモニターにはROのログイン画面が映し出されていた。   「懐かしいな。僕がROを始めたばかりの頃のログイン画面じゃないか」   次にモニターは別の画面を映した。   一人のキャラクターのグラフィックと共に映し出されたのは、   初期ステータスや髪型、名前を決定することができるキャラクター作成画面だ。   青いノービスデフォルトの髪型をしたキャラクターの下にある名前入力欄に文字が入力される。   名前は――   「known――ノウンか……って、これ、まさか」   僕の言葉を遮るように、モニターは更に別の画面を映す。   複数のキャラクターが並ぶようにして映し出されたのはキャラクターセレクト画面だ。   その一番左端に、LV15の剣士となったknownがいる。   モニターの端から一つのマウスカーソルが現れると、knownに重なるようにして静止した。   その直後、   『別のキャラクターを作りたいんだけど、やっぱり消すならこいつしかないかな』   頭の中に直接声が響く。   その声は僕自身にとってくどいほどに聞き慣れた声だった。   響いた声に呼応するように、マウスカーソルがキャラクターセレクト画面の下にある、delと書かれたボタンへと重なり、   ボタンに書かれた行動を実行するためのパスワードがたどたどしく入力されていく。   『折角作ったキャラクターだったけど……まぁ、仕方がないか』   新たに響く声と共に、マウスカーソルがOKボタンに重なり、   画面にはカウントダウンが刻まれるのに比例して青いゲージが右へと伸び、パーセンテージが増していくのが見える。   僕はただ、刻まれていくカウントをじっと見つめる。   5……4……3……2……1……   ついにカウントがゼロになり、画面が切り替わった瞬間、キャラクターセレクトからknownの姿が消えた。   突然モニターの映す画面が真っ白になったかと思うと、周囲が淡い光を放ち始める。   そんな中、僕は思った。   「そう、そうだったな。何で今まで忘れていたんだろう」   今ようやく気付いた。   あの声は僕自身のもので、モニターに映し出されたのは、かつて自分の起した行動だと。   オーク村で自身の名前を確認した際に、どこか懐かしい感覚がしたのは気のせいではなかったのだ。   そして辺りが徐々に光に包まれる中で、僕は自身の意識が次第に覚醒していくのを感じていた。   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇   気が付いてまず最初に思ったのは、自分が見つめる天井が知らない物だということだった。   僕が一年ほど利用していた宿と似たような木組みの天井だったが、細部が所々異なっている。   それが自分の住んでいた世界の、住み慣れた場所の天井ではないということも分かる。   今もこうしてROの世界で目覚めている現状から鑑みて、   やはり、目が覚めたらいつか元の世界に戻れるのでないのか、という考えを持つことは甘いらしい。   その次に思ったのは、厭に自身の周囲がアルコール臭いということだ。   僕はその臭いの元らしきところへ手を伸ばし、何かを掴んで手元へ引き寄せる。   それは瓶状の薬草酒らしく、ラベルには七割以上のアルコール度数が記載されていた。   鉛のように重くなっている身体を無理やり起した時、強い眩暈を感じた。   当然といえば当然だ。   僕は意識を失う直前までは、通常では考えられないほどの量の血を流した。   あれだけ失血していれば嫌でも眩暈を感じるというものだ。   体を起して暫くした後、ようやく頭に血が巡り始めたのか、自身の置かれた状況を把握することが出来た。   僕はあの後、ここで誰かに手当てを受けていたようだ。   手当てといっても気付け薬を使ったものだけらしく、   僕が手に取った薬草酒の置かれていた場所の隣に水差しが置いてあるだけだった。   身体には包帯はおろか、傷口に消毒すらされていない。   もっとも、そうする前に傷口が全て塞がっていた為、必要がないと判断されたのだろう。   意識を失ってどれくらいの時間が過ぎたのだろうか。   窓から射し込む日の光から今が昼間なのは理解できる。   そのことから最低でも一晩経っていることは間違いない。   続いて窓から涼しい風が入り込み、備え付けられたカーテンが踊るようにそよぐ。   その様子を見ながら、僕は意識を失っていた間に見た夢を思い出す。   あれはただの夢ではない。   あそこに映し出されていたのは、かつて僕が起した行動そのものを示している。   あの時見せられた通り、確かに僕はknownというキャラクターを削除した。   ゲームの世界としてのROでも、そしてそれに関係しているであろうこの世界においても、   本来ならknown――ノウンと呼ばれる者は存在しないはずである。   なのに、現に僕はこうしてこの世界にいる。   それは事実から矛盾していることを表している。   気付いてしまった以上、僕には真実を知る権利があるだろう。   イズルードにある剣士ギルドならば、転職者の経歴を調べることも出来るはずだ。   そして、そこで何かが得られれば、僕がこの世界にいる意味や、   あの女性から不要な存在と言われた理由も分かるのではないだろうか。   そうと決まればここに長居はしていられない。   未だに身体は重く感じるが、無理にでもベッドから降りようとする。   その結果、派手な音を立てると共にベッド脇に倒れこんでしまった。   思いっきり顔面を打ちつけた為か、鼻を擦り剥いてしまったが、   それには構わず這いずってでもここから出ることを決行する。   しかし、直ぐに思わぬ障害にぶつかることになった。   ここは二階らしく、外へ出るためには目の前にある階段から下りなければいけない。   どうするべきかと階段を見下ろしながら考えていると、一人の若い女性が階段下からこちらを見上げている。   「あ……どうも、こんにちは」   とりあえず挨拶をしてみる。   女性は長い髪を揺らしながら階段を上ると、僕の目の前で座り込み、出来るだけこちらと目線の高さを合わせようとしてくる。   「こんにちは。お目覚めですか?」   花のように美しい唇から、透き通るように綺麗で、優しさを感じる声を掛けられる。   僕は多少ドキドキしながらも正直に答えてしまう。   「え、ええ、お陰さまで。これから剣士ギルドまで行こうと思っていたんですが……」   「その身体で、ですか? それには些か無理がありませんか?」   僕は今、立つことが儘ならず、床を這いつくばっている状態である。   プロンテラからイズルードまで歩くには割りと距離がある方で、彼女の言うとおり、この状態で向かうには無理があった。   そのことを指摘されてしまうと僕は何も言えなくなって口ごもる。   そんな僕を尻目に、女性は僕の肩へ手を回すとゆっくりと立ち上がらせてくれた。   「ここに運ばれた時、あなたは外傷こそないものの、意識がまるで戻らない状態でした。    クラウス様から話を聞いたときには酷い失血をしていたと聞きました。    目覚めて間もないでしょうから身体の自由が利かないのも当然でしょう」   優しく諭しながら彼女は僕の身体をベッドまで運ぼうと、ゆっくりとした足取りで向かっていく。   多分、僕に負担を掛けないようにしてくれているのだろう。   それにしても、さっき"クラウス様"という言葉を耳にしたが、僕の聞き間違いだろうか?   女性の助力もあってベッドに座ることが出来た僕に、彼女は   「焦る必要はないですよ。今はゆっくりと身体を休めてください」   そう優しく言い聞かせるような声を掛ける。   その優しさに対して嬉しさと申し訳なさを感じて、涙が出そうになるのを堪えつつ感謝の言葉を述べる。   「すみません、見ず知らずの人間にここまでして頂いて……」   「見ず知らずだなんてとんでも御座いません。あなたはクラウス様の大切なご友人。    その助けが出来ただけでも光栄です」   まただ。また"クラウス様"という言葉を聞いた。   僕の知っているクラウスという人物は一人しかいないが、それは周囲から"様"付けされるような人物ではない。   聞き間違いでないとすると、同名の他人だろうか?   そんな僕の思惑を知ってか知らずか、女性は両手を合わせると思い出したかのように言う。   「そうですね。気が付かれたとなれば早速クラウス様をお呼びしないと……少々お待ちくださいね」   どこか嬉しそうな様子の女性は軽やかな足取りで階段を下りていった。   (これは不味いことになったかもしれないな)   女性の言う"クラウス様"がもし僕の知るクラウスならば、事の顛末を話して巻き込むのはよくない。   僕はそう直感的に判断した。   せめて同名の他人が現れることを祈るばかりだ。   暫くして彼女と共に階段を上って現れたのは、残念ながら僕の知っているクラウスその人だった。   彼は僕の顔を見るなり、いきなり深い溜息を吐いた。   「なんだよ、その溜息は……」   「いや、よく気が付いてくれたと思ったら安心して、な」   緩んでいた顔を引き締め、クラウスの顔が真剣そのものという表情へ変わる。   「でだ、ノウン。一体何があった?」   やっぱりそのことを一番に聞いて来るか。   当たり前といえば当たり前のことなのだが。   僕はクラウスの質問を無視するように、ベッド脇に置いてあった自分の荷物からZenyの入った小袋を取り出した。   「クラウス、君は僕があの宿の宿泊代を毎日清算していることを知らないで僕の分まで払っただろ。    元々僕の分まで払う必要はなかったんだよ。女将さんからその分を届けるように言われて僕はここまで来たんだ。ほら」   言いながらZenyの入った小袋をクラウスに手渡し、彼は戸惑いながらもそれを受け取った。   「あ、ああ、態々悪いな。って、そんなことよりもだ。ノウン、一体何が――」   「それよりクラウス。僕は彼女に礼が言いたいんだけど、名前も知らないんだ。よかったら君から紹介してくれないか?」   僕はクラウスの言葉を徹底的に遮って、ひたすら話題を逸らすことにした。   二人にはかなりわざとらしく見えるだろうが、この際細かいことは気にしていられない。   あの時会った女性の言う不要な存在というものが、僕がこの世界に存在していることと関係しているのなら、   尚更そのこととは縁遠い二人を、特に色々と迷惑をかけてきたクラウスを巻き込む訳にはいかない。   恐らく、これが僕を介抱してくれた二人へできる最大の恩返しなのだろう。   少なくとも、僕はこの時そう思っていた。