落ち着け。感情に身を任せて、我を忘れるな。ティナの目の前だぞ。 俺はさっきから、何度も自分にこう言い聞かせている。でも真っ青な顔でベッドに横たわるノウンを見るほど、平静を装うのは難しかった。 焦燥と無力感が、胸を締め付ける。いったい、誰がノウンをこんな目に…。この部屋まで彼を運んでくれた警備兵の手を借り、慎重に脱がせた ノウンの防具を見る。そうすると、どうしても思い出してしまうのは、塞がってもなお痛々しい彼の傷跡だった。 頑丈なロングコートをものともしない、凶器の切れ味。幾重にも走るその太刀筋は、敢えて急所を外していた。 思わず噛み締めた奥歯が、ぎりと音を立てる。残忍な奴だ。ノウンをすぐに楽にするつもりはなく、できるだけ長く苦しめつつ殺すつもり だったに違いない。異様に回復の早い彼でなければ、助からずに失血死していたはずだ。 早く目を覚ませ、ノウン。そして聞かせてくれ。どんな奴と対峙したのかを。例え俺の手に負えない相手でも、必ず一矢報いよう。 そんな心の叫びも、今は口にするわけにはいかない。ただティナの看護を見守るしかない自分が、もどかしくてしょうがなかった。 見れば彼女は、いよいよ薄めた薬酒をノウンの口に含ませようとしている。俺は、自分の面持ちがいよいよ強張るのを感じた。 ずっと落ち着きを失っていないティナと比べれば、ずいぶん対照的に見えることだろう。 さあノウン、目を開けるんだ。何が起きたのか語ってくれ。しかし俺の願いをよそに、彼は気を失ったままだった。いよいよ泳ぎ始めた目が、 ふとティナと合ってしまう。すると彼女は、優しく語りかけて来た。その顔に湛える温かい微笑みを見ると、不思議なほど心に落ち着きが 戻って来る。 「クラウス様、心配しないで。ほら。ノウン様のお顔に、血の気が戻って来たでしょう?」 本当だ。気付かなかった。俺はいったい、ノウンの何を見ていたんだろう?こうなると、冷静でなくなっていたのが余計に恥ずかしい。 そんな感情を追い払いたかったのか、意識していないのに語気が強まってしまう。 「その薬、効いてるのか?ノウンは、まだ目覚めないじゃないか。」 「大丈夫。例え呪いの眠りでも、心地よく覚ますと言われるのがこの薬酒ですよ。それに脈拍も上がって来ましたから、明日の昼には 意識が戻るでしょう。」 「そうか…。安心したよ。さあ、下に降りよう。ノウンの着替えを用意しないとな。」 「お手伝いしますわ。」 ようやく心が余裕を取り戻したのか、ふと他愛もないことを知りたくなってくる。 「ああ…そうだ。あの酒、意識のある人があの配分で飲んだらどうなるんだろう。」 「まあ、ご冗談を。心臓が早鐘を打って、夜も眠れなくなりますよ。」 「うわ、やはりロクな薬じゃなかったんだな。あれは…。」 首を振りふり階下へ降り、ティナと一緒にノウンに着てもらう服を探す。うん、良かった。どうやらクラウスは、剣士時代の制服を大事に 取っておいたみたいだ。立てるようになり次第、ノウンに身につけてもらえるだろう。 服を持って、ノウンの傍らに戻る。彼は、静かな寝息を立てていた。後ろからついて来たティナと、顔を見合わせる。その途端、肩から最後 の荷が降りたような安堵感に包まれた。と同時に、今まで気づいてもいなかった疲労感が一挙に襲って来る。いい加減、長かったこの一日に 終止符を打とう。入って来た時と同じく静かに屋根裏部屋を出ると、ティナに「お休み」を言って自室のドアを開けた。 ここが、自分の部屋か…。家の風呂に入った時よりも、深い感慨に囚われそうなものだけど、不思議とそんな気分にはならなかった。とにかく 眠いからだろう。まだ、タンスしか調べてないのが惜しいけど、じっくり調べるのは明日にしよう。やっとの思いで寝巻に着替えると、俺は ベッドに倒れ込み、深い眠りへと落ちて行った…。 ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 翌朝、目覚めてみれば疲れはすっかり取れていた。地平線から太陽が姿を現し始める頃で、淡い朝日が窓から差し込んでくる。さて、と…。 今日は、普段着で過ごす気分じゃないんだ。周りを見回してみると、洋服ダンスの隣りに一回り小さなタンスがあった。もしやと思い、 開いてみると果たして予備の甲冑が、行儀よく座っている。その脇には剣も立て懸けてあった。甲冑の下に着る布鎧も、鎖かたびらもすぐに 見つかる。それらを全て身につけ、一階の台所へ向かう頃には、下から朝食の香りがもう鼻をくすぐっていた。ノウンの様子は気になったけど、 このナリだと歩くだけで音がするからな。彼の休息を、こちらから破りたくない。ティナのことだ。先に見てきてくれただろう。 階段を降りて来た所で、彼女と目が合う。 「おはようございます、クラウス様。よくお休みになれました?」 「おはよう、ティナ。おかげで快適な眠りだったよ。一年ぶりの我が家だというのに、布団が干したてだったからな。」 ティナは言葉もなく、嬉しそうにお辞儀する。俺は表現を考えつつ、そのまま続けた。 「私のことよりもだ。ノウンはどうしてる?」 さすがにクラウスも、普段はティナの前で砕けた一人称を使ってなどいないだろうと踏んだんだけど、その読みは当たったらしい。ノウンが 聞いたら吹きだされるかも知れないな。一方、ティナはいぶかしがる素振りも見せず、問いに応じる。 「まだお休みです。ノウン様の分も、お食事はご用意しましたが…。」 そう言って、かまどの方を振り向く。視線の先では鍋が火にかけてあり、そこからミルク粥の香りが漂っていた。うん。これなら今のノウン の喉も通ってくれるだろう。 「ありがとう。時々、ノウンの様子を見に行ってくれ。他にも、手桶にお湯と、乾いた布を用意してもらいたいんだ。寝ている間に汗を かいただろうから、拭いてあげたい。担架に担ぎ上げた際に、プリさんが聖水で血を洗い流していたんだけどな。そんな気休めくらいで、 まだ傷口の消毒も済んでないんだ。もっとも、その必要もなさそうだが…。あと、彼が目を覚ましたら知らせてくれ。私は調べごとがある から、部屋にいる。」 思わず、気負っていたのだろう。求めに応じるティナの声には、俺を静めようとする響きがあった。 「分かりました。でもまず、朝食にしましょう。お茶が冷めてしまいますわ。」 いけない。ひとつ気にかかることがあると、それだけに心を奪われてしまう。俺は苦笑すると、ようやく席に腰を降ろした。ティナも微笑む と、それにならう。朝食の味がやけに美味しく感じられたのは、気のせいなんだろうか。