ノウンの上半身を丹念に拭いていくティナ。そんな二人を見守りながら、俺はノウンの話を反芻していた。 頭の中に、一年前の彼の顔が浮かんでくる。俺に、剣の稽古を頼んで来た時のあの表情だ。そう。彼は目的を遂げるためなら、 どんな困難も甘受する人物に見えたし、事実そうだった。どんなに打ち据えても、ノウンは剣を手に向かってきたんだ。 そんな彼が、今回は自分の問題に俺を巻き込むまいとした。それが何を意味していたのか、もっとよく考えてみるべきだったかも知れない。 何者かがノウンに大けがを負わせ、屈辱まで与えて立ち去った。そのあまりにも残酷な事実は、俺の心から冷静さを失わせるに充分だった。 そしてそのまま感情の奔流に任せ、強引に助太刀を申し出てしまった。再び頭が冷めて来ると、これで良かったのか疑問が頭をもたげて来る。 怒りに流されて、尊重されるべきノウンの個人的な領域にまで、無遠慮に踏み込んでしまっていないか?それが俺の望みなのか?いや、違う。 そんな仕打ちを受けて、ノウンが喜ぶはずがない。それにいくら手助けした所で、俺が彼の問題を解決できるはずもない。分かるんだ。 ノウンは頑ななまでに、俺を巻き込むまいとしたじゃないか。ならこれは彼自身に深く関わってくる問題なのであって、いくら頑張っても 俺には解決できるはずないだろう。俺が出来るのは手伝いだけだ。いや、正直に言って力になれるかどうかすら怪しい。 なら、俺は何がしたいんだろう。なぜ強引に希望を押し通したことを、少しも恥ずかしく思わないんだ? こう自問した時、少しずつ自分の心の中が見えて来たような気がした。復讐。これこそが、俺の望みなのだ。 友に深い傷を負わせた者を、同じ目に遭わせてやりたい。同じようにその存在を否定し、屈辱を味わわせてやりたい。そして何より、二度と ノウンに危害を加えようなどと思わないようにしてやりたかった。それにしても、自分でも驚くほど暗い感情が渦巻いているな。こんな心の 内をノウンが知ったら、どう思われることだろう…。 気を取り直し、改めて彼の方を見やる。考え事に没頭するあまり、すっかり周囲の状況から取り残されてしまっていたらしい。 いつの間に運んで来たのだろう。ノウンはティナに手伝われつつ、湯気の立つミルク粥を食べている所だった。やはり、恥ずかしいのだろう。 彼女の手でしゃじを口に運ばれるノウンは、心持ち顔を赤らめているように見える。何とも和やかな光景じゃないか。固くなっているはずの 自分の表情が、少しだけ緩むのを感じた。 「それじゃ、警備隊の詰め所に行って来る。ティナ、ノウンを頼む。」 「お任せ下さい。お気をつけて、クラウス様。」 「クラウス、僕はついて行かなくていいのか?」 「立件するわけじゃないし、私一人で大丈夫だろう。ゆっくり休んでいてくれ。」 妙に気取った一人称を、ついに聞かれてしまう。ほんの一瞬だったが、ノウンは必死に笑いをこらえているように見えた。 全く、ティナがいるおかげで二人とも調子が狂うな。まあ、こちらも気恥ずかしそうに食事を摂るノウンを見られたことだし、これで お相子ってとこだろう。 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ 通りへ出て、早足で城まで向かう頃には、頭が切り替わっていた。ノウンは言っていたな。犯人がゲームマスターの格好をしていたって。 彼の推測通り、政府の特務機関が関わっているのなら…。最悪の状況が頭をよぎる。ともすると、誰が敵で誰が味方なのか、分からなく なるだろう。また、今日の味方が明日には敵方に引き込まれているかも知れない。もう罠は張られていて、俺はライオンの口へ飛び込みに 向かってるんだったりしてな。そう考えると思わず足早になり、表情も硬くなる。気が付けば思ったよりもずっと早く、プロンテラ城の門 が見えて来た。 吊り橋を渡ろうと進んでいくと、門衛に呼び止められる。手回しの良いことだ。もう話が通っているらしい。こりゃ、先方も本気だな。 そのまま詰め所へ案内され、一室に通される。そこで待っていた相手を目にした時、思わず声を出してしまった。ノウンを家に担ぎ込んだ 時、手伝ってくれた兵隊さんの一人だったんだ。 「おぉ、貴方は!」 「クラウス殿ですね。お待ちしておりました。さあ、席へどうぞ。」 彼は、一人の十字軍士を前に全く気後れした様子を見せなかった。それなりに、階級が高いのかも知れない。 「ノウン殿はいかがされました。お姿が見えないようですが。」 さすがだ。彼の前では一度しか口にしていないはずの名前を、しっかり覚えている。 「意識は戻りました。おr…私が参上しましたのは、それをお知らせするためです。」 「それは何よりです。ぜひともご本人から、何があったのかお聞かせ願いたいのですが…これからお伺いしてもよろしいですか?」 「それには及びません。ノウン殿は今回の一事に関して、立件をお望みではないそうです。」 兵隊さんはいささか、意表を突かれたらしい。気のせいかな。一瞬、眼が光ったような…。 「ほう。クラウス殿だけがこちらに参られたのは、そのためでしたか。では詳しいお話は、貴方からお伺いせねばなりますまい。」 兵隊さんは、わずかに居住まいを正した。いつの間にか、こちらに与える印象がガラリと変わっている。 ノウンをベッドまで担ぎ込んだ時、彼はいかにも誠実で熱心そうな感じがした。でも、今は違う。その眼は据わって、冷たく鋭い光を 宿している。眉間は、今にも縦ジワを刻みそうだ。隠し事など、しても無駄だぞと言われているような気分になる。それは老練な、捜査官の 顔だった。 ふん、やはりただ者ではなかったか。彼が敵とは限らないが、ここはプロンテラの城内だ。ノウンの敵が本当に特務の者だったら、話の内容 は十中八九、彼女らにも伝わるだろう。俺もこの瞬間、じっくりと値踏みされてると思った方が良さそうだな。よし、そうと決めたら…。 思案を巡らしていると、兵隊さんが質問の口火を切った。 「さて、クラウス殿。ノウン殿は、貴方に何か話してくれましたか?」 俺は、憮然たる面持ちで答える。 「いいえ、それが何も。」 「意外ですな。犯人の姿くらいは、話してくれても良さそうなものですが。」 「全くです。私も釈然とせず、問い詰めました。すると、どうでしょう。」 途方に暮れた表情を作って見せると、俺は続けた。 「何を尋ねても、『あの時のことは記憶にないんだ。』と言うじゃありませんか。」 「本当ですか?あれほどの血だまりを作って倒れていたのです。その直前の記憶くらい、鮮明に残っていそうなものですが。」 「ええ、本当に困りました。挙句の果てには、『僕はそういう病気なんだ。』とまで言い張りまして。」 もはや、ウソ八百だ。もっともこの程度じゃ、敏腕の捜査官を煙に巻くなんて無理だろう。案の定、兵隊さんは身を乗り出すようにして 問いかけてきた。 「そんなウソが、通るとお思いか。確かにノウン殿には外傷こそありませんでしたが、装備に剣で斬られた痕跡がいくつも残っていたでは ないですか!」 そろそろ、こちらも攻めに転じるか。 「おっしゃる通りです。とても納得できる話ではありません。真相を知りたいのは、誰よりも私ですよ。そこで、ひとつ質問をお許し願いたい のですが。」 「私にお答えできることなら、何なりと。」 「あれほど都人の耳目を集めた事件です。直後の検問くらいは、張って頂けたでしょう?捜査関係者に、犯人の目撃情報は届いていないのです か?」 兵隊さんは、恥ずかしそうに言葉を濁す。 「それが…恥ずかしながら、犯人については何も手掛かりが得られていないのです。目撃情報も、遺留品もありません。」 なぜだ。どう考えてもおかしいじゃないか。まだ夜の闇が辺りを覆う時刻までには間があり、街路には人通りが絶えていなかった。その中で あれほどの騒ぎを起こしたのに、誰も捜査線に引っ掛かっていないだって?警備隊の初動に、何か問題があったに違いない。でなければ、犯人 をかばう者が居ると見て間違いなさそうだ。 そこでこっち見んな、とでも言われそうなあきれ顔を作り、一芝居打つことにした。 「それでは、困ります。私がノウン殿に剣の稽古をつけて来たことは、この城にお勤めの貴方もよくご存知でしょう。その愛弟子が、幾重にも 刀傷を受けて倒れた。このままでは、私の名誉に関わります。」 「と、申しますと?」 「同僚に会わす顔がありませんよ!『クラウスはあれほど時間を掛けながら、剣士一人にさえ稽古をつけられないのか。』とウワサされるに 決まっています。犯人を剣の錆にするまでは、腹の虫が収まりません。」 もちろん、俺はノウンの師匠面をするつもりなど全くない。だが、敢えて自分の名誉ばかりを気にする小心者を演じることにした。恐れるに 足りない相手だと思わせておけば、敵も油断してくれるかも知れない。さて、眼前の捜査官くらいは欺けただろうか?見れば、彼の顔には 明らかに、興ざめしたような色が浮かんでいた。敬意を払うに値しない奴だ、と思ってもらえたかな。 「…失礼ですが貴方のご事情など、問うてはおりません。それよりも、クラウス殿はこの事件をどう思われますか。なぜ、ノウン殿は真実を 語らず、立件を望まれないのでしょう?」 「ノウン殿と 私 の 名誉のためにも申し上げますが、彼は斬られたはずがありません。己が身を、相手に斬らせたに決まっています。」 「それは、腑に落ちませんな。なぜ、相手にそんなことを許すのですか。」 「それこそ、私の預かり知る所ではありません。しかし、貴方も武人ならばお察しして頂けるでしょう。贖罪、報恩、栄誉…理由は何であれ、 認めた相手の刃に、身を任せる者がいることを。」 「ノウン殿は、そのような相手に出会った、と申されるのですな。」 「はい。なぜウソまでついて、あれほど明確な犯行に関する証言を拒むのか。そういった理由があれば、全てに説明がつきます。」 「しかし、それでは凶悪犯が野放しになってしまいます。クラウス殿。どうにか、ノウン殿から真相を聞き出して頂けませんか。」 「無理でしょう。彼も誇り高き剣士ですから。」 「うぬぬ…分かりました。貴方と話しても、これ以上得られるものはなさそうですな。お引き取り頂いて結構です。立件は見送りましょう。」 「お心遣いに感謝します。ノウン殿も喜びましょう。それでは、これにて。」 苦虫を噛み潰したかのような渋面の兵隊さんを尻目に、家路に就く。道すがら、安堵のため息が出そうになるのを何度もこらえた。思えばあの 場に、早くも罠が仕掛けられていたかも知れなかったんだ。こちらが特務の関与を疑い、警戒していることを敵に知られてしまったら、どうなって いただろう。もしあの兵隊さんが敵側の人間だったら、俺は適当な理由でも付けられて二度目の逮捕を体験していたかも知れない。 そんなことにならないよう、これからも気をつけないとな。